「with コロナ」の時代における芸術文化と表現
新型コロナウイルス感染症の流行は、芸術文化の現場に大きな危機、変化をもたらしています。
本シリーズでは、各分野で活動されている方や識者に、現状や課題、今後の可能性などについて、様々な視点から、寄稿いただきます。
2020/08/21
共演者に伝染(うつ)さない?
東京芸術祭総合ディレクター、SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督
宮城 聰
~シリーズ「with コロナ」の時代における芸術文化と表現~
新型コロナウイルス感染症の流行は、芸術文化の現場に大きな危機、変化をもたらしています。
本シリーズでは、各分野で活動されている方や識者に、現状や課題、今後の可能性などについて、様々な視点から、寄稿いただきます。
舞台芸術界、ライブエンターテイメント界、あるいはスポーツ界は、「いったいいつまでこの状態が続くんだろう」という不安と向き合いながらなんとか再開にこぎつけたわけですが、再開直後から次なる不安、つまり「中止の不安」と直面することになりました。
演劇に限定して考えてみますと、まずは、観客の皆さんのなかに「無症状の感染者」がいらっしゃったとしても、他のお客様に伝染らない手立てを講じればなんとか公演が可能になる、という観点での対策が追求されました。次に、出演者サイドに無症状の感染者がいたとしても、その出演者がお客様に伝染すことは決してないようにするための対策が徹底されました。テクニカルスタッフについても、同僚に(もちろん出演者にも)伝染さないよう考えに考えて対策が立てられました。
しかし最後にひとつ──「出演者に無症状の感染者がいた場合に、共演する出演者に伝染さない」ための対策、が残っています。いまからはここにフォーカスして対策を立てねばなりません。
「おいおい、そんなこと言ったらひとり芝居しか上演できないんじゃないか」と思われるかもしれません。でも、僕はそうでもないと思っています。
演出という仕事をしてると、どんな苦境も、どんな「新たな局面」も、実は過去に似たようなことがあったんじゃないか、と思考する癖がついてきます。人はたかだか100年しか生きないので「こんなことは人類史上初めてのことだ」と思いがちなのですが、でも人間というもの自体は少なくとも2500年くらいは変わっていないので、人間の悩みとか苦境とかはたいてい前にも同じようなことがあったはずだ、という考え方をする、それが「演出家の思考」かなと思います。(2500年前というのは、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』や『王女メデイア』などが書かれたときで、いまでも世界中の劇場でギリシャ悲劇が上演されているのは人間の中身がその頃と変わっていないからですよね。)
で、その演出家の思考で「ウィズコロナの演劇上演」を考えてみると、あれれ、「古典劇」と言われるものの上演形態はたいていが「ウィズコロナ様式」になっているんじゃないか?と気づきます。
いや、「たいてい」というのは言いすぎですが、そうですね、例えば能の舞台を思い浮かべてみてください。もし舞台上に無症状の感染者がいた場合にほかの出演者に伝染する可能性があるのは、かみてに集団で座っている「地謡」のパートだけではないでしょうか?「地謡」は英語で言えば「コーラス」で、ギリシャ悲劇における「コロス」です。やはりコーラスのパートは現在のままではいけないということになりますが、それ以外の出演者は濃厚接触をしません。
古代のギリシャ悲劇の上演も、いまから見ればウィズコロナ様式です。俳優は舞台上で距離をとって立ち、つねに正面を向いて喋ります。つまり俳優同士は向き合っていません。(しかも仮面をかぶっています!)とうぜん、相手役に直接触ることもありません。そして劇場は野外でした。十数名で群読するコロスはたしかに「密」だったかもしれませんが、そこさえ気をつければ今日の状況でも上演できます。
上記のギリシャ悲劇のスタイルを読んで、歌舞伎と似ているな、と思われた方もいらっしゃると思います。歌舞伎には新しいスタイルも入り込んでいますが、古い形式のものは、俳優同士の濃厚接触が少ないですね。
こうしたことはインドや中国の古典劇も同様です。日本の民俗芸能などを思い起こしても、出演者同士が直接相手に触ることは滅多に無いでしょう。
このように考えてくると、むしろ「俳優が相手役のからだに触る」「至近距離で相手役に向かって喋る」という演技スタイルは、近代ヨーロッパが生み出したかなり独特な演技様式なのではないか?という気すらしてきます。
少なくとも、劇場内が「衛生の良い」場所になったのは(演劇の歴史の中では)割合最近のことです。ついでに言えば、劇場に電気が引かれるようになってからまだ100年余りしか経っていません。いま我々はウィズコロナの新常態に苦労していますが、100年ちょっと前の劇場は「ウィズアウト電気」だったわけです。つまり我々がつい数ヶ月前まで当たり前と思っていた演劇のスタイルは、長い演劇史の中に置いてみると、ごく最近始まった流行にすぎない、とも言えます。
というわけで、舞台上の出演者同士の濃厚接触をなくすことは、案外、演劇を「メインストリーム」に戻すことなのかもしれません。そのうえで、楽屋や舞台裏での密を周到に回避すれば、「無症状の出演者が知らぬ間に共演者を感染させている」という可能性はなくなります。
その上で、演劇も(オペラのように)アンダースタディを用意することが求められますね。どの俳優が出演できなくなっても、その役を演じることのできる代わりの俳優がいる、という態勢です。
こうしておけば、ある朝、出演者の一人が発熱した、という場合に、その日の公演を中止しなくてよくなります。共演者には濃厚接触者がいないからです。
実のところ、公演期間中に、出演者の一人たりとも微熱を発しない、なんてことはありえません。舞台とはそもそも日常よりテンションの高い場所であって、そこに入れば普段とは体調が変わるのが当たり前です。でも、「誰かが熱を出したら、その日の公演が飛んでしまう」という状況では、むしろ出演者は発熱を隠したくなるでしょう。なので、誰かが熱で休んでも公演は中止にならない、という前提を作っておくことが大事です。
いま「出演者に陽性判定が出たら2週間は公演できない」と思われていますが、それは、共演者が濃厚接触者と認定され、濃厚接触者はPCR検査で陰性判定が出ても2週間自宅待機するルールがあるからです。その一方、出演者の劇場への行き帰りでウィルスに感染する可能性をゼロにはできません。そして全出演者が毎日毎日PCR検査を受けることもできないでしょう。
もちろん、「きょうは上演されるかな」と、日々ハラハラしながら、観客も劇場に足を運ぶ、というのもまた演劇の楽しみ方のひとつです。過去にそういう時代もありました。
つまりどっちを取るかですね。どうしても公演中止を避けたいと考える演出家には、演劇の歴史をさかのぼって、舞台上の濃厚接触をなくすという選択肢がある、ということを思い浮かべてほしいと思います。
SPAC-静岡県舞台芸術センターでは、「人が劇場に集まれない間は、いま人がいる場所を劇場にしよう」という発想で、アートをいろいろな方法で「宅配」する事業を展開した。
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