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コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

2021/02/05

ディストピアな未来とウェルビーイング

アーティスト
長谷川 愛

~これからの芸術文化のウェルビーイングとは〜
身体的、精神的、そして社会的に「よい状態」のことである、「ウェルビーイング(Wellbeing)」。
「with コロナ」の時代における、芸術文化の「ウェルビーイング」について、ドミニク・チェン氏をスーパーバイザーに迎え、特別編として全3回でお送りいたします。第3回は、アーティストの長谷川愛さんにご寄稿いただきました。

広義の「表現すること」が人のウェルビーイングにどう影響するのかというテーマは認知心理や教育など、様々な領域で研究されてきました。今回は、わたしがディレクターを務める21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展』にも作品を出展して頂いた清水淳子さんと長谷川愛さんに、表現の当事者としての観点から芸術とウェルビーイングについてご寄稿をお願いしました。

アートとデザインの枠を拡張し続けるお二人それぞれにとって、表現行為がどのようにウェルビーイングを構成するのかというヒントに溢れた内容を頂きました。清水淳子さんはグラフィックレコーディングを描く経験を介して聴くことと視ることが接続され、他者と自己の認知が深まる過程を記述され、長谷川愛さんは自分の痛みと絶望を表現の起点に据えたことで、自分で自分を自由にできたと説かれています。お二人の視点に共通するのは、表現が自分自身や周囲との関係性に変化を促す動きであるということです。

このような内側からの視点は、表現とはとりもなおさず学習であるという気づきをもたらします。それは、固定化された表現の結果だけではなく、変動するプロセスへの注視をも促すものです。であれば、変化の過程の中にウェルビーイングの因子を求めていくことが必要になるでしょう。ぜひ読者の皆さんとも共に考えていければ幸いです。

ドミニク・チェン


私がウェルビーイングと聞くといつも思い出すのは、以前ドミニク・チェンさんの記事で読んだ「フローリッシュ」についてのこの箇所です。

『フローリッシュとは英語で「花が開く」という意味の動詞で、名詞形は「フローリシング」です。これは「才能が開花する」というニュアンスにかなり近いもので、心が充足していて、さまざまな能力を存分に発揮できている状態であるとも言えます。』

出典

美味しいものを食べるとか、素敵な場所にいくとか、楽しい映画をみるとか、そういった楽しいもの以外で「幸せ」について考える時もこの言葉を思い出します。

10年以上前私は鬱でした。素敵なパートナーやロンドン暮らしは幸せだったはずなのに自分に合わない仕事をしていた私はとてもマイルドに鬱で、それを認めつつ抜け出せなかったものです。その後色々あってパートナーと別れそれを切っ掛けにようやく人生を見直すことができ、ロンドンにある美術大学院 Royal College of Art(通称RCA)に入学し「自分にしか作れないもの」を追求し始めました。自分でもゴミかもしれないと恐る恐る提出したアイデアに価値を見出し、育ててくれる先生に出会い、作品として形にし世に出し、ある程度認めてもらうことができた時、ものすごい充足感を感じました。基本的に人に連絡を取ってお願い事をしたり計画立てて何かをするのがものすごく苦手なので、制作中はリサーチ以外の作業はイヤイヤやっているところがあるのですが、その苦手なことを超えて、自分の中の「ゴミかもしれないもの」を取り出し眺め、別の視点で捉え作品に磨き上げる、そんな作業はとても難しいけれども、この「フローリッシュ」という言葉に相応しいと思います。もはや小学校で教えるべきは、人生の目的は結婚するとかお金持ちになるとかではなく、如何に自分の中の才能を開花させ生きていくことか、と言っても過言ではないと思うのです。

作品制作を通じたウェルビーイング

私は制作を通じて、自信を育て鬱から脱することとなった「フローリッシュ」を得ること、そして「自由」を求めて「痛み止めを処方」もしくは「呪いの解除」をしている面があります。

芸術文化には別の角度の視点を持ち込むことにより問題をリフレーミングさせ、それが人々を縛る問題を解くヒントになります。例えば自作品『私はイルカを産みたい・・・』(2011-2013)は、当時の自分にとって子供を産むことがとても重要な問題でしたが、人間を産むことがとても罪深いことのように思え、一方で産まないという選択肢にも迎合することはできませんでした。そこで、人間の子供を産むこと以外の選択肢、食べること、ダイビングで海洋生物と出会うことが好きであるなら、絶滅の危機に瀕している海洋生物の代理母になってみたらどうだろう、という提案を自分を含め鑑賞者にしてみました。私が生まれ育った文化「女性は素敵な男性と恋をして健康な子供を産みたいものだし産むものが幸せなものである」みたいな価値観を「本当にそうなんだろうか? 他にも別の価値観があるのでは?」更には「本当に不可能なのだろうか?どのようなテクノロジーがあったら可能なのだろうか?」と自ら疑い、仮説を組み立ててビジュアルに落とし込み、自分に問い直す作業によって自らにかけられた呪いを解いて、私は私を自由にしていっているのだと思います。


『私はイルカを産みたい・・・』(2011-2013)

『Human X Shark』(2017-)という作品では女性を強くし、オスのサメを魅惑する香水の開発研究をしている途中なのですが、この作品も「言葉が存在するのにもかかわらず、なぜ人と人の溝はこんなにも深いのだろうか」という、私の痛みと絶望から発生しています。むしろ「理解し合えると思う」その期待からくる絶望は堪え難いものがあり、ならいっそコミュニケーション不可能だと思われる生物と繋がれた方がよほどロマンティックで喜びが深いのでは、という提案です。もちろん幾重にも問題のレイヤーは重なっているのですが、私は作品を通じてあえて「端的に纏めるとこういうこと」というイメージを、自分を含め、鑑賞者のフレームを緩ませるために、やや乱暴に投石しています。


『HUMAN X SHARK』(2017-)

非常事態が常態化したときの芸術文化とウェルビーイング

私なりに未来を想像してみたのだけど、様々な人間間での諍いや分断、異常気象や環境問題などトラブルの種は盛り沢山で、日本の未来が明るくなる予想材料がなかなか見つからなくて、残念ながら暗い未来が現状です。更に上記であげた問題と問題の掛け算の可能性もありえます。例えばコロナと地震の掛け算は2020年のトルコで既に発生しています。

そんな訳で「これからのウェルビーイング」を考えると「災害と災害の掛け算」や「恒常的に頻発する災害」により住み慣れた場所から移住せざるをえない状況になったとき、移住を「旅」や「ワーケーション」のようにポジティブに捉え、受け入れるカルチャーを作り、土地に縛られずにどこでも働けるといった、変化により軽やかにより柔軟に対応できる、そんなウェルビーイングな集団を増やすにはどうしたら良いのだろうか、ということを考えています。そもそも何故「定住」というものを、さらには現在の居住文化を私たちは良いと信じているのだろうか、そんなところから問い直して私たちの生活や人生をデザインしなおす思考実験をしても良いタイミングなのかもしれません。

ソーシャルマイノリティーのウェルビーイング

昔は一人暮らしが気楽で好きだったのですが、シェアハウス暮らしを数年重ねて、色々な食べ物や才能を持ち寄って楽しく暮らすシェア暮らしが大好きになってしまいました。そこで暗い未来のサバイバルを考えると複数人いた方が作れるものや出来ることのスケールが変わってきますし、楽しさも膨らみます。もちろん良好な集団の人間関係をどのように作り維持していくことができるのかが重要なポイントになります。

多くの人間が一緒に暮らしていく、そういう社会をデザインする時には、マイノリティの存在を重要視していく必要性があります。ソーシャルマイノリティ、社会的弱者。あなたには今は直接関係無いかもしれませんが、将来的に自然災害や病気など様々なトラブルによっていつ自分が社会的弱者になるかもしれない事を考慮すると、この設計はますます重要になっていきます。

最近私が気になっているのは、技術開発時に誰が誰のために何を開発するのか。関わる人の種類によってその技術が特定のあるグループの人間に不利益な方向に開発されてしまうことがままあり、すでに様々な問題が提起されています。

例えば手前味噌で恐縮なのですが、私のプロジェクト『Alt Bias Gun』(2018-)は人種差別とテクノロジーの組み合わせ、それによって出来上がる社会と生活を問題にしています。「武器」「政府」「顔認識AI技術」の組み合わせというと、自律的機械による民族大量虐殺といったネガティブなシナリオが思い浮かびますが、それでもポジティブな使い方を考えることが出来るのでは、とポジティブな技術の使い方にチャレンジした結果、『Alt-bias Gun』というプロジェクトとして、銃の上についたカメラで「警察に銃殺されやすい顔」を認識するとバイアス、偏見で撃とうとしていないかアラートが出て、ストッパーが作動ししばらくトリガーを引けなくする、といった仕組みを考えてみました。

『(Im)possible Baby』(2015)は日本において当事者である女性が性や生殖にまつわる技術開発についての決定や社会実装についての会議や意思決定に参加できない現状に対してのプロジェクトです。これは性差別や倫理決定層のジェンダーの偏りによって、マイノリティ向けの生殖技術が開発されないのではないか、同性間で子供をつくることをして良いのか、してはダメなのか、そしてそれは何故なのか、そしてそれを誰が決めるのか、といった一連の倫理問題を皆で公平公正に考えるためのプロジェクトでした。

新しい技術の開発のされ方、使われ方は「誰が関わる」かでがらりと様相を変え、結果として私たちの生活や社会構造を変えてゆきます。


『Alt Bias Gun』(2018-)


『(Im)possible Baby』(2015)

ウェルビーイングな、ノマディック・テクノ・ヒッピーの誕生

ディストピアな未来を楽しく暮らすイメージを思い浮かべることができるでしょうか。難しかったので、過去に参照を求めてみましょう。大人数が移動しながらも消費文化にそれほど依存せず楽しく暮らしていた文化を過去から探してみると「ヒッピー文化」が思い当たりました。過去のヒッピー文化は資本主義を否定するが故に経済力が無く持続性に欠けたこと、大人数をまとめあげるコミュニティ運営の難しさ、そして保守的な地元民との軋轢といった問題を抱えていたと思います(これに関してはNetflixドキュメンタリーの『Wild Wild Country』が詳しいです)。

それを乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか。例えば衣食住の自給自足化をDIY BIO、IoTなどを組み合わせた新しいものづくりや食糧生産テクノロジーによって可能にするとしたらどうでしょうか。コミュニティ運営に関しては心理学や脳科学と学際的に繋がる情報技術による、コミュニティ運営ツールを使い、固定化された一本の関係性ではなく、出入りのオープンな緩やかなコミュニティが多種多彩に存在し、その時々の成長や気分次第でコミュニティを複数掛け持ったり、流転したり、様々な関係性で繋がれた社会を、まずは夢想してみます。 

芸術文化は物事を多視点で捉えることを促す故に、きっとその開花のために肥料のように働きます。AかBか、2択に見える問題を、いやCやDの道だってあるよ、と私たちの頭に知らずに掛けられていた既成概念のベールをはらりと軽快に取り払い去るための技術や知恵の使い方、それが私たちを自由にするクリエイティビティだと思います。

芸術文化を上手に使って自分を解体し、自由に組み直す。ラディカルな環境変化についていけるラディカルな精神と社会システムを皆で作っていけたら、、、とまずはディストピアを軽やかに楽しみながらサバイブする「ウェルビーイングな、ノマディック・テクノ・ヒッピー」という新たな文化の開花を夢想している今日この頃です。


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