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東京芸術文化創造発信助成【長期助成】活動報告会

アーツカウンシル東京では平成25年度より長期間の活動に対して最長3年間助成するプログラム「東京芸術文化創造発信助成【長期助成】」を実施しています。ここでは、助成対象活動を終了した団体による活動報告会をレポートします。

2020/04/30

第7回 チェルフィッチュのアジア展開

対象事業:一般社団法人チェルフィッチュ「アジアの国際共同制作プロジェクト」(平成28年度採択事業:3年間)
スピーカー(報告者):岡田利規(演出家、小説家、チェルフィッチュ主宰)、黄木多美子(チェルフィッチュ プロデューサー)
司会進行:石戸谷聡子(アーツカウンシル東京 シニア・プログラムオフィサー) 


助成対象活動の概要

それまでヨーロッパをはじめとする欧米での海外活動が定着していたチェルフィッチュが、アジアでの活動基盤を求めるスタートアップの活動を、平成28(2016)年度から30年度(2018)の3年間を東京芸術文化創造発信助成の長期助成で支援しました。共同するアーティストやカウンターパート探し、活動できる国などを広げていくため、あらゆるリソースを探す取り組みから始められました。中国での公演『三月の5日間』リクリエーション版の上演といったレパートリーのツアーのほか、タイでの共同制作作品『プラータナー:憑依のポートレート』は大きな成果となりました。

第一部:レポート

インターナショナルからインターコンテクスストへ。国際共同制作のあらたな展開

2007年のクンステン・フェスティバル・デザールでの『三月の5日間』公演を皮切りに、ヨーロッパでの上演活動を続けるチェルフィッチュ。彼らはなぜ、今、アジアを舞台に、あらたな創作のあり方を探ろうとしているのでしょう。今回の報告会では、タイのアーティスト、俳優とつくりあげた『プラータナー:憑依のポートレート』のクリエイションを軸に、平成28(2016)年度の長期助成事業として採択された「アジアの共同制作プロジェクト」の3年間の歩みが紹介されました。

ヨーロッパのフェスティバルでの上演はもちろん、主宰の岡田利規がドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の作・演出を担うなど、チェルフィッチュは、2000年以後の日本の現代演劇において、おそらくもっとも国際的に活躍しているカンパニーだろう。その彼らが、アジアに目を向け、あらたな国際的共同作業のあり方を探り、創作や上演のネットワークを構築しようというのが、今回の長期助成事業「アジアの国際共同制作プロジェクト」だ。
今、なぜ、自らアジアに向かい、創造のプラットフォームをつくるのか。その背景には、次世代に残せる創作のモデルを残そうという使命感に加え、自らの成功の基盤となっているヨーロッパの共同制作(コ・プロダクション)のあり方への漠たる不安があったという。
「コ・プロダクションは、複数の団体、劇場やフェスティバルが一つの作品に資金を提供し創作の支援を行う、ヨーロッパ型の資金集めのシステムです。2008年以後、チェルフィッチュもその恩恵を受け、創作を続けてきましたが、こうした国際共同制作では、一つの作品の完成がゴールになりますから、単発的に終わってしまうこともある。カンパニーとしては、それではもったいないなという思いがありました。また、このシステム自体、ヨーロッパの経済や既存のネットワークにもとづいて成立していますから、10年後、20年後にも存続しているかはわからないと思っています。」とは、チェルフィッチュのプロデューサーをつとめる黄木多美子。岡田もまた、ヨーロッパの公共劇場、フェスティバルのキュレーションの背景を知ればこその危機感があったと語る。「今は、コ・プロダクションのシステムが、非西洋の国のアートに対しても適用されています。でも、その前提にはヨーロッパの多文化主義があって、その寛容さがいつまで続くかもわからないわけです」

リサーチ、上演、クリエーションが併行、交差した3年間

3年にわたる「アジアの国際共同プロジェクト」は、中国、タイ、インドネシアなどでの既存の作品の上演やリクリエーション、ワークショップと、タイの作家、ウティット・ヘーマムーンの小説をもとにした新作『プラータナー:憑依のポートレート』のクリエーションとを併行させるかたちで進められた。
1年目の2016年度は、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、カンボジア、ベトナムなどを訪問。現地のプロデューサー、アーティストとの交流をはかりつつ、現地の社会と芸術の関係、創造環境などについてリサーチを深めた(この取り組みは3年間を通じて行われ、15都市で100人以上の人に出会ったという)。ウティット・ヘーマムーンの長編小説の舞台化に取り組むことを決めた直接のきっかけも、この年のタイでのリサーチだった。「シラパコーン大学というタイの芸術大学がありますが、そこを、ウティットに案内してもらった時に、もうすぐ書き上がる彼の小説の主人公がアーティストを志してこの大学に入学するという設定だと聞きました。内容についても話してもらい、それを舞台化したいと決めました。ただ、ウティットとは、その前の年に、五反田のゲンロンというスペースでも会っています。タイ文学の検閲について語るイベントで、僕は単に観客としてそこに行ったんです。タイのことというよりも、「検閲」が生々しく存在する状況で生きているアーティストに関心があったので。それは決して他人事ではないですから」(岡田)
2017年3月には、バンコクで『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を上演。現地の観客と俳優、クリエイターに、チェルフィッチュと岡田の表現スタイル、哲学を伝えたうえで、翌2017年度初めには『プラータナー』のためのオーディションを開催、本格的な創作への準備を始めた。長編小説、それもタイ語で書かれたものを翻訳しながらの脚本執筆には、かなりの時間と労力を要したという。2018年1月には、小説の日本語翻訳を手掛けた福冨渉、岡田の小説のタイ語翻訳を担当したマッタナー・チャトゥラセンパイロートを始めとするスタッフが集い、6時間分にもなった第1稿をブラッシュアップする合宿も持たれた。「まだ全然、演劇的とはいえないようなテキストを見ながら、言葉の問題だけでなく、社会的な文脈、中に登場する歴史的な出来事、小説で用いられているメタファーが何を意味しているのかといったことをあらゆる角度から検討する3日間でした」(岡田)。なお、その直後には、チェルフィッチュとしては初めての北京公演で『三月の5日間』を上演。新作のクリエーションと併行しつつ、既存の作品のリクリエーション、さまざまなかたちでの共同制作のパートナー探しも継続されていた。
プロジェクト3年目。舞台版『プラータナー』は、日本とタイでの舞台美術や照明のプランニング、6月からの2カ月のリハーサルを経て、ようやくその姿を現した。8月にバンコクで幕を開けた後は、12月にパリで、そして今年6月には東京でも公演し好評を博した。「今までにも僕は、インターナショナルなプロダクションに関わってきましたが、自分の中では、そういう国ごとの関係というよりも、コンテクスト、文脈というものが重要なんじゃないかということを感じ始めています。僕にとって『プラータナー』が新しかったのは、それが扱っている内容が、僕が属しているコンテクストのものではないということ。もちろんリサーチはしましたが、だからといって、タイの社会についてわかっているわけではない。ただ、僕は、『プラータナー』のような作品が、タイのコンテクストの外側にいる人たちにどう働くかということを考えたし、それをやったというふうに思っています。また、それができたのは、チェルフィッッチュの作品にしても、それを日本以外のコンテクストの中に置くという“国際的”な経験を十分にしてきたからです。そういう意味では準備はもうできていた。振り返ってみれば、子供のための芝居をつくるといった時にも、僕はコンテクストというフレームで考えながらつくっていたし、国とか文化といった大規模なものだけじゃない、例えば同じ町のあっち側とこっち側くらいのコンテクストを超えるものはつくれるし、もっとつくるべきなんじゃないか。そういうことを考えるのが、今は面白いんです」(岡田)。
『プラータナー』は、ヘーマムーン自身を投影させた主人公の画家の性愛遍歴とタイの現代史を交錯させた作品。その上演に立ち現れた、揺れ動く時代、社会と身体の間に生まれる緊張感は、痛々しさと同時にどこか力強い印象を残すものだった。またそれは、岡田とチェルフィッチュが長年取り組んできた、社会と空間と身体、語りの相互関係の探求ともつながる「集大成」にも見えた。現地での創作を行うための独自の資金調達、テクニカルスタッフの相互交流など、計画しつつも実現できなかったことも少なくない。多くの人との重要な出会いもありつつ、プロジェクト目標として掲げていた「あらたなアジアの共同制作のかたちの構築」には届かなかったと、岡田も黄木も率直に認める。だが、次につながる萌芽は、『プラータナー』の上演空間で実現された数々の試みの中にすでに生まれていそうな気もする。


第二部:深堀インタビュー
ヨーロッパでアジアで、惑いつつ探り、つくり続ける

報告会の後半ではアーツカウンシル東京のプログラム・オフィサー石戸谷聡子が聞き手となり、今回の助成金申請の背景ともなったヨーロッパの公共劇場、フェスティバルとの共同制作のあり方、それを踏まえたアジアでの共同作業の成果や課題について、より具体的に紐解くインタビューが行われました。

―まず最初に、長期助成、あるいはそれを活用した国際共同制作で、チェルフィッチュが実現しようとしてきたことをあらためてお伺いしたいと思います。そもそも「国際的」ってどういうことなのか、「共同」って誰と何が共同なのか、そして「制作」というちょっと定義が曖昧で、広く捉えることができる3つの単語をつなげて、私たちは「国際共同制作」という言葉を使っています。ですからそこには、いろいろな意味が含まれていますし、「国際共同制作」の歴史の中でも主流の考え方、意義は変わってきていると思います。そういう前提を踏まえつつ、チェルフィッチュが切り拓いてきた国際共同制作について、もう少し具体的な内容をお聞かせいただけますか。たとえば、劇場やフェスティバルから資金が提供されるヨーロッパ型のシステムを、どんなふうにカンパニー側、つくり手は活用することができるんでしょうか。

黄木 もちろん、お金を出してもらった劇場やフェスティバルで上演することは大前提になりますが、資金を提供していただき、それを創作に使わせてもらうというのが、ヨーロッパ型のコ・プロダクションのシステムです。ですから、劇場やフェスティバルが、作家への信頼と期待に基づいて、その作品にコミットするという意味合いが大きいです。それは「システムが確立されているからこそ」ということもできますが、やはり、まだできていない作品に資金を提供いただくということの重みは感じます。

岡田 上演の機会をもらえるというのは、いつも、喉から手が出るほど欲しいものですから。

―クリエイションの過程では、資金を提供する側との話し合いもあるそうですが、どういう方とどういう話をされるんでしょうか。

岡田 話す相手は、劇場やフェスティバルの芸術監督であることがほとんどです。新作で、まだできていないものにお金を出してもらうということもありますが、それだけじゃない関心も持ってくれていると思うんです。だから、今何を考えていて、どういうテーマで、どういう美学を持って作品をつくろうとしているのか、その時点で自分が考えていることを話してシェアしていきます。

―最初に共同制作の依頼があってから上演が実現するまでには、どのくらいの時間がかかるものですか。

黄木 まず、新作をつくることを決めて、「コ・プロダクションのシステムを使って資金を集めよう」となってから初演までだと、長くて3年、短くて2年くらいです。日本の年度制は4月から3月で一年ですが、ヨーロッパのシーズンはだいたい9月から6月という期間で動きます。そうすると予算の組み方も変わってくるので、ギリギリ滑り込みでパートナーが決まる、ということもあります。

―長期助成に話を戻しますが、私の手元にあるチェルフィッチュさんからの助成金申請の書類には「ヨーロッパ型の国際共同制作とは異なる『アジアの共同制作』とは何かという問題意識をもって、その可能性を3年間かけて探りたい」と書いてあります。実際に3年間、活動してみて、アジアならではの形態は見出せたのでしょうか。また、思い描いていたことがどのように実現したり、実現できなかったのかも教えていただきたいと思います。

黄木 大きな国際交流プロジェクトを実行する際に、日本の資金がメインになると、どうしても日本とコラボレーション相手のエネルギーに差というか、ヒエラルキーができがちになるということはあると思います。そうではなくて対等な関係づくりをしていく。
岡田 僕らはヨーロッパで構築されているシステムの恩恵を受けて活動しているわけで、そのことには本当に感謝しています。でもその一方で、このシステムにおんぶに抱っこしていることへの忸怩たる思いもあって、それとは違う自前の何かをつくらないといけないという気持ちにおのずとなる、ということは根本にあると思います。ただ、経済的な状況も含めた圧倒的な現実というものもあるので、そう簡単にはいかなくて、たとえば『プラータナー』によって、アジアならではの国際共同制作の形が構築できましたということになっている、とは思っていないです。

黄木 当初はタイでも何かしら資金繰りをしていこうという計画はありましたし、実際に現地で出会った制作の人たちと資金集めに奔走もしたんですけど、結局叶わなかった。ですから『プラータナー』ではタイからの資金は一切ない状態で創作を行ったわけです。

―今、タイの話をしていただきましたが、この3年間のアジアでの活動の中で、ヨーロッパや北米では想像できなかったような壁は感じられましたか。

黄木 ヨーロッパとの共同制作では出会ったことのない壁としては、やはり、検閲、自己検閲の問題がありました。

岡田 検閲は、多少問題になりました。でも、今回の作品に関しては、僕は本当にそれを心配したことは、実は一回もないんです。理由は簡単でこの原作小説はすでに出版されているもので、それがOKだったわけで。僕はそこに何か付け加えたりはしてないし、削ることしかしてなかった。だからそれでどうにかなるわけがないと思っていました。とはいえそれは僕の観点で、プロダクションにかかわるメンバー、特にタイの人の中には心配する人がいたのも事実です。そのことが理由でこのプロダクションに参加するのを取りやめた人もいました。

―取り上げる作品がどういうものかわかってはいたけれど、創作のプロセスの中で降板したということですか。

岡田 そうですね。どんな作品か知らなかったわけではありません。何か具体的なきっかけがあったかどうか、僕にはわかりませんが、その人の中では何かあったんじゃないかとは思います。

黄木 私はどちらかといえば、中国での『三月の5日間』の公演の方に深く携わっていましたが、たとえば「中国だったから大変」というような言い方はちょっと乱暴かなという気もしています。ヨーロッパでも大変なところは大変で。ものが届いていないとか、現地スタッフが予定通りに働かないといったことで、テクニカルチームが行ってから苦労することはよくあります。そもそも北京で公演することになったきっかけは、2015年に最初に訪れた時に、街とお客さんの圧倒的なエネルギーを感じたことにあります。地元の演出家と俳優たちが『三月の5日間』のリーディングをしてくれたんですが、それを観ているお客さんの熱気もすごくて。岡田さんにとってもそれは衝撃的だったと思います。とにかく見たことがないものに対する熱気、エネルギーの強さを感じました。それで「これはちょっと、北京で私たちの作品をやりたいね」という話をしました。
岡田 『三月の5日間』という作品を作り直そうと思ったのは、その北京の夜だったわけです。

「場所性」を超える試み

 
―『プラータナー:憑依のポートレート』は昨年12月にパリ公演も行っています。こちらの反応はいかがでしたか。

岡田 タイというある特定の場所のコンテクストを、どのように、その外側にいる人に対して「あなたにも関係あることですよ」というふうな作品にできるか、というのが僕にとって重要だったという意味では、初演のバンコクでそれを検証することはできない、パリではどうなのか、ということは、重要でした。で、どうだったかというと、ものすごい熱狂みたいなものはなかったです。日本のことを扱っているチェルフィッチュの作品をパリで上演した経験はあるので、それとの比較はできるわけですが、それで僕が感じたのは、日本に対しての好奇心やイメージは一定程度あるのに比べると、タイへの認識、関心、それからこれまでどんな作品を観てきたかというような経験は少ないんですよね。で、この経験が、自分の今後の活動にも結びつくような気はしています。そこから考えられる問題もたくさんあると思いますし、今のところは、そこで考えは止まっているんですけど、すごく重要な比較ができた気がします。僕としてはフランスの観客にも、どこの観客にも、この上演の主人公、これはあなたのことだよと言いたい、その一心でつくったところがあったし、そこに壁はなかったんですが。

黄木 ちょっと補足させていただくと、ヨーロッパの東南アジアに対する距離の遠さは確かにあるんですが、パリでの公演がまったく理解されなかったわけではなくて、パリの文脈に触れつつ「新しいものを観た」というふうに興奮ぎみに語ってくださった方もいますし、公演後にベルリンの劇場から上演のリクエストをいただいたりもしました。

―上演をゴールにするのではなく、次世代に残すことを考えたいというのも、申請の段階におっしゃっていたことです。この長期助成の3年間を経験して、何かチェルフィッチュにとっての変化や財産になったことがあれば教えてください。

黄木 もちろん『プラータナー』という作品ができたということはありますが、同時に外からは見えない成果もあったなと思っています。それは、若手の制作スタッフがこの3年で非常に成長できたということです。国際交流基金アジアセンターをはじめ、複数の助成をいただいていたこともあって、プロダクションを運営するための仕事、事務作業も多岐にわたっていて、複雑だったんです。それに一つひとつ対応しながら、プロジェクトを進めてきたことで得られたプリコグの知見を共有していければ、次の世代につながる何かを得られたということにもなると思っています。

―ありがとうございます。一連のプロジェクトを経て、さらに今後取り組もうと考えていることはありますか。

黄木 昨年、チェルフィッチュでやった映像演劇(『渚・瞼・カーテン』チェルフィッチュの<映像演劇> 熊本市現代美術館)を、上海で上演しようという話が持ち上がり、一時はそれも助成対象に含めていたんですが、結局頓挫してしまったことがありました。中国とのやりとりでは、なかなか前に進まないなと思っていると急に進む、というようなところがあるんです。北京公演の直後にも、あるフェスティバルのディレクターから「上演してくれないか」と依頼されましたが、そのスケジュールが3カ月後で、「それはちょっと無理だな」と。ただ、そういう今までに感じたことのないスピード感やスケール感を受け入れていく寛容さ、柔軟さもこれからは鍛えていきたいなとも思っています。

―確かにアジアでのプロジェクトは、3カ月くらいのスパンで動かなければいけないことが多い、という話は、いろいろな団体の方から聞いていますし、そのスピード感に私たちの助成の仕組みがついていけていないこともひしひしと感じています。最後にお聞きしておきたいのですが、この長期助成を使うなかで、もっと、こういう時にこんなふうに助成金を使えたらいいな、というようなことはあったでしょうか。

黄木 創作期間に使える助成が今はまだ少ないなと感じています。たとえば俳優のリハーサル期間をきちんと確保するための助成プログラムはまだ少ないし、申請するにも一定の条件があって、若手の劇団にとってはちょっとハードルが高いんじゃないかと思うこともあります。

―私どもの長期助成は3年間の活動の中で、どこかで一般の方にも公開できるものがあればよい、たとえばリサーチだけで終わる年度があってもいい、というものです。そうしたことはどのくらい意識して申請していただいたんでしょうか。最終的にどこへ行き着くかわからないにもかかわらず、3年間の計画を立てるというのは、難しいことでもあったと思いますが。

黄木 1年では達成できないことをやらせていただく、そのためのプランを立てるというのはもちろんですが、その3年間のアジアでの活動計画の中で、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』や『三月の5日間』のような、一つひとつの公演をどう位置づけるか、という戦略的な視点を持てたことは非常に有意義だったと思います。

質疑応答

質問者1 前半のプレゼンテーションでは、「ある文脈の外(に出る)」という視点を持った創作をされてきた中で、うまく機能しなかった例もあると言われていましたね。それはどういうケースで、どういう判断、基準によるものですか。

岡田 どういう基準でそれを「うまくいった」「いってない」と判断しているのかは、自分でもよくわからないんです。抽象化して話すことができないので、具体的にいうと『フリータイム』という作品は、自分にとっては、うまくいかなった例です。ただ、その判断自体がどうなのか、ってことも最近考えるんですよね。確かに、コンテクストを超えられなかった作品を「よくなかった」と僕は判断しているけど、その基準が果たして正しいのか。ドメスティックなコンテクスの中で機能するならそれでいいじゃないか、って考えもあると思うんです。ただ、僕はその考え方にはもう乗ることができないし、そっちに行くことは、今のところはないと思います。

質問者1 制作面についてもひとつお伺いしたいのですが、タイで資金集めに奔走されて、それがうまくいかなかった、合意に至らなかった理由を、お話いただける範囲で具体的に教えていただけますか。

黄木 国の助成金プログラムの申請をしたんですが、実は、国との密接なコネクションを持つプロダクションでないと、その助成を受けることは難しいという実情があった、ということはありました。ただ、チュラロンコーン大学やデモクレイジーという劇団のリハーサルスタジオを優先的に使わせていただいたりもして、いろいろなところで、お金ではない協力を得ることはできました。

岡田 ヨーロッパのコ・プロダクションの話をした時に、自分が今何を考えているか、どういうテーマをやりたいかといったことを、ディレクターや芸術監督とシェアするという話をしました。アジアの場合でも、ヨーロッパでいう芸術監督に該当するような人とのコネクションをつくれているかというと、たとえば言葉を通訳してくれる人のようなキーパーソンとのつながりはありますが、僕はできていないと思います。ただ、それはどこかで、ヨーロッパのコ・プロダクションのシステムをアジアでもつくりたいというふうに考えているところがあるから、「出会えていない」と思ってしまうのかもしれなくて、「出会えていないからダメだ」というような必要はないのかもしれない。たとえば『プラータナー』に出てくれた11人の俳優たちはすごく素晴らしいわけです。つまり、アーティストには出会えているし、それも大きな財産だなというふうにも考えています。

石戸谷 3年間で15都市の100人以上の人に出会ったというお話がありましたよね。その中から具体的に何かのプロジェクトが進行するようなことはありますか。

黄木 これは私やチェルフィッチュの話ではないのですが、プロデューサーで、チェルフィッチュの制作をしているプリコグの代表の中村(茜)が「Jejak-旅 Exchange」というフェスティバルを企画しています。これも3年にわたってアジアの都市をめぐるもので、インドネシアとマレーシアとの共同プロジェクトでもあります。

質問者2 タイでの創作と併行して、ヨーロッパでツアーをしていたということに驚きました。新しい作品のための作業が、別の作品の発展に影響する部分はあったんでしょうか。また、タイの俳優たちとの出会いは非常に大きいということをおっしゃっていますが、今回、日本の俳優が中国に、タイの俳優がパリや日本に行くといった体験をする中で、岡田さんはアーティストとしての俳優の成長について、どういうふうにお考えになっていたのかをお聞きしたいなと思います。

岡田 「コンテクスト」の話に半ば強引につなげるんですけど、めちゃくちゃパーソナルにはなりますけど、僕が置かれているコンテクストっていうのもあるわけですよね。それは今何をつくっていて、何にいちばん集中しているかみたいなことです。で、たとえば『プラータナー』の準備をしている期間があって、別の演目のツアーに行くみたいなことがあると、僕自身のコンテクストが更新されているから、自分の中でも違うコンテクストにある作品を観るようなことがあるし、上演する場所のコンテクストもある……というようなことが起こって、なんだかんだ、それが、次のことを考える要因になっているというのはあります。また、ある演目の上演が繰り返されるというだけで、上演そのものはもちろん、俳優たちの上演におけるパフォーマンスも育ちます。いろいろな場所、いろいろなコンテクストの中でされるという経験はさらにそれを促進させると僕は思っています。同じ100回をやるにしても、同じ場所で100回やるのと、いろいろな場所でやるのでは違うという意味です。
それと、俳優の自主性については、まず、タイとか日本の区別なしに話すと、俳優に自主性があるということは僕にとっては当然の条件です。そうじゃないと、一緒に働けない。僕自身も演出で具体的に「こう動いて」みたいなことはどんどんしなくなってきているんです。そこは俳優が自分でやる。で、それによってつくっているものはよくなってきていると思うんです。お花に水をやるくらいのことはしていると思いますけど、俳優が勝手に育つみたいな感じです。引っ張ったりしたら抜けちゃうわけですしね。そのうえで、タイの俳優についていうと、独自の自主性を持っていると思います。彼らはたとえばドイツの俳優たちのように劇場に所属しているわけではない。活動の仕方としてはもっとインディペンデントな、日本の小劇場と似たような状況にいると言っていいと思います。だけど、彼らが置かれている社会的コンテクストはそれとは異なっていて、国家とそこで生きている人間との間の緊張感、テンションが日本と比べると強いです。そういう状況の中で、アーティストをやるということ自体がおのずとそうさせるんだと思いますが、彼らは、自分はどう考えるのかという立場を明確にするし、アゲインスト感があるんです。そのことが、自分で考えてつくっていくということをうながしてもいる。そういう違いはあるなと思います。

質問者2 日本でそういう人材が今後育つためにも、岡田さんの経験は活かせる可能性があるのでしょうか。

岡田 僕が経験しても僕は次世代じゃない。そこが問題なんですよね。どうしたらいいんでしょう。今すぐこうすればいいというのは、僕の中にはないです。

質問者3 ご自分の書かれた戯曲が別のカンパニーや演出家が上演する例を、どんなかたちで把握されていますか。またもし若い、学生のような方が上演するとして、どういったアドバイスをされますか。

岡田 上演の申請は僕の著作物を管理しているプリコグに来ますから、把握はできます。アドバイスはしないし、求められたこともないので、ちょっとわかりません。映像を送ってもらったりして、観たことはありますし、何か思うこともありますけど、別に作家なんて死んでたっていいんだし、僕がどうこういうことではないです。自分が書いた戯曲を演出するからという観点の中で何かを言うつもりはないです。求められたらまた話は別ですけど。

質問者4 多様性を芸術で担保するというヨーロッパのようなスタイルがいつまで続くかわからないということ、だからといってアジアに目を向けても、従来のやり方のままでは、日本の著名な演出家の作品が上演されて終わりといった単発のイベントになってしまうという懸念、この2つの危機感が、今回の長期助成の利用の背景にはあったと思います。では、今あるヨーロッパ型、アジア型とは異なる見通しにはどういうものがあるのか。チェルフィッチュやプリコグと世界との関わりのなかで、これから何か、その見通しになるようなものがあれば、教えてください。

黄木 具体的な例というのは、残念ながら今はありません。ただ、これまでとは違う可能性が開けるかもしれないと思っているのは、さきほども話に出た映像演劇のプロジェクトです。これは、展示というかたちで上演されるものですから、技術的にも移動がしやすいですし、中国にしても東南アジアにしても、圧倒的に演劇よりも現代美術のフィールドの方が成熟していて、お金も回っているという前提があります。ですからこの映像演劇から、これまでとは異なる活動の方法が見いだせるのかもしれません。

岡田 僕は『プラータナー』を通して、小説を上演という別の形に置き換えるということの可能性に関心をもちましたし、それをもっとやりたいと思っています。ただ、だからといって、タイの小説の舞台版をタイの人とつくりました、その別の国版をやっていきますというのは、新しいことじゃないとも思うし、僕の中では盛り上がることではないです。

質問者4 ヨーロッパ型のフェスティバルに参加もし、その恩恵も受けつつ、そこにおんぶに抱っこであることに忸怩たる思いもあるとお話されていましたね。とはいえ、今後もヨーロッパでの活動は続けられるんですよね。

岡田 作品をつくれること、上演できることがいちばん大事なので、やれるならやります。

黄木 ヨーロッパ型のシステムを否定したいわけではなく、いつまで私たちがそういう活動の方法をとれるかもわからないので、新たなやり方も見つけていかなくてはいけないということです。ヨーロッパでの活動のあり方が存続していく限り、上演の機会をいただける限りは続けていきます。

岡田 くしくも『プラータナー』という小説は、タイの芸術家を主人公にしていて、その彼も「タイで、アジアで芸術をやってるけど、それってなんなの?」みたいな、「芸術ってヨーロッパのものでしょう?」というような葛藤をするんですよね。これはただの偶然ですけど、今のこの話ともかぶっているんですよね。そういうことです。


チェルフィッチュ
岡田利規が全作品の脚本と演出を務める演劇カンパニーとして1997年に設立。独特な言葉と身体の関係性を用いた手法が評価され、現代を代表する演劇カンパニーとして国内外で高い注目を集める。その日常的所作を誇張しているような/していないようなだらだらとしてノイジーな身体性は時にダンス的とも評価された。07年ヨーロッパ・パフォーミングアーツ界の最重要フェスティバルと称されるクンステン・フェスティバル・デザール2007(ブリュッセル/ベルギー)にて『三月の5日間』が初めての国外進出を果たして以降、アジア、欧州、北米にわたる計70都市で上演。近年は、世界有数のフェスティバル・劇場との国際共同制作により、『現在地』(12年)、『地面と床』(13年)、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(14年)、『部屋に流れる時間の旅』(16年)『三月の5日間』リクリエーション(17年)を発表。つねに言葉と身体の関係性を軸に方法論を更新しながら既存の演劇手法に捉われない表現を探求しており、18年には映像によって演劇的空間を立ち上げる展示/上演、『渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉』(熊本市現代美術館)を制作・発表した。

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