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DANCE 360 ー 舞踊分野の振興策に関する有識者ヒアリング

今後の舞踊振興に向けた手掛かりを探るため、総勢30名・団体にわたる舞踊分野の多様な関係者や、幅広い社会層の有識者へのヒアリングを実施しました。舞踊芸術をめぐる様々な意見を共有します。

2018/05/02

DANCE 360 ― 舞踊分野の振興策に関する有識者ヒアリング(1)小島章司氏

2016年12月から2017年2月までアーツカウンシル東京で実施した、舞踊分野の多様な関係者や幅広い社会層の有識者へのヒアリングをインタビュー形式で掲載します。

DANCE 360 ― 舞踊分野の振興策に関する有識者ヒアリング(1)
フラメンコ舞踊家 小島章司氏
インタビュアー:アーツカウンシル東京

(2016年12月20日)


–小島さんの活動の変遷について教えてください。

小島:僕が若い頃、ナンシー梅木さんがアカデミー助演女優賞をいただいた頃でした。※1 それで、「やれば、日本人だってできるんじゃない」、みたいな気持ちになってね。大きな希望を見つけて、何年か後にスペインへ旅立つということになるんです。その当時、いろんなそういうエボリューションがあって私たちが育っていった。まだそれぞれの芸術ジャンルがずっと力をつけていっているような感じでしたね。それが1950年代の終わりから60年代。

※1 1958年、ナンシー梅木氏はハリウッド映画「サヨナラ」(1957年公開、監督はジョシュア・ローガン)で、アカデミー助演女優賞を受賞した。 これは東洋人として初のアカデミー賞受賞だった。

–1976年に帰国されて、日本の文化の状況をごらんになったときに、どんなことを感じられましたか。

小島:フラメンコというのはやっぱり、今申し上げたように、(フォルクローレのギタリストの)アタウアルパ・ユパンキだとか、(地唄・生田流筝曲の初代富山)清琴さんだとか、フラメンコでもそういう心をわしづかみにするような、歌う人とか、音楽でも何でもそういう人に触発されて、自分の心が躍動するというか。踊るということなのですがまだ歌とか、歌う人は今みたいにあんまりいなかったりしたので、結局はもう何かやりたいときはスペインから呼んでくるような感じでした。でも、私がスペインに行った次の年に新宿の伊勢丹会館のエル フラメンコ※2 というのができて、そこのフラメンコを啓蒙していく力というのは相当だったと思いますよ。ずっと年がら年中ショーをやっていましたからね。だから、そこを通して、いろいろ日本人のフラメンコ愛好家と交流が深まって、すごく勉強もさせていただいたりとか、いいものを伝えていただいたりとか。

※2 エルフラメンコ:伊勢丹会館6階に1967年に設立。観客はスペイン料理とともに、フラメンコのショーを楽しむ日本では初のフラメンコの拠点(タブラオ)であった。スペイン人ダンサーの招聘も積極的に行い、来日した数は合計で900を超えるとのこと。2016年に閉館し、現在は跡地に株式会社バモスが運営するフラメンコのタブラオ「タブラオ・フラメンコ・ガルロチ」が開店。(参照:http://garlochi.net/

何十年かしたらそうやって戻ってきて、日本の舞踊社会のために貢献しなければいけない立場になっていても、(海外で)習った人たちがみんないいように稼働していっているかどうかはちょっと難しい問題かもわかりません

–今の日本の現状というのはどんなふうに感じていらっしゃいますか。

小島:日本の場合はあちこちに世襲のような文化がありますね、例えば東京バレエ団の斎藤友佳理さんは(母・木村公香に次ぐ)二世でしょう。それから、NBS(バレエ・日本舞台芸術振興会)だって、芸術監督の久保紘一さんもアメリカから帰ってきて、もともとお父様が理事長をやられていたところだし、そういうような、結局、日本の古典芸能じゃないけど、親子代々、世襲して。ここでバレエがあったら、その子供たちが、そのままこう行っている。それが何となく身についてしまっていくというような、そういう現象がありますね。
一方で私がこの前、行ったノルウェーのオペラハウスのバレエ団だって、日本人の西野麻衣子さんはプリンシパルの1人だし、男性舞踊手の中でも今度は半分レパートリーを伝えていく立場になっている稲尾芳文さんとかがいますね。でも、何十年かしたらそうやって戻ってきて、日本の舞踊社会のために貢献しなければいけない立場になっていても、(海外で)習った人たちがみんないいように稼働していっているかどうかはちょっと難しい問題かもわかりませんよね。それだけ舞踊を一生懸命修得して、それが即、プロフェッショナルとしてうまく稼働していくかどうかという土壌をつくれているかという問題がありますよね。

–土壌をつくれているかどうかというところで、今、何が足りないと思いますか。

小島:じっくり時間をかけて取り組む活動。この間、ノルウェーで作った『シミュレイクラム/私の幻影』※3 は何かすごくおもしろい体験で、すごく悠長なプロジェクトだと思うんですね。ぜいたくに4年も長期的に付き合いました。じっくり大きなプロジェクトに取り組むときに、今回の『Simulacrum/シミュレイクラム』のように、すごくクリエイティヴなメンバー、多岐にわたる方々に支えられてできたと。だから、そういう情報網、そういうことの収集も必要かもわかりませんよね。

※3 シミュレイクラム/私の幻影:ノルウェーの芸術家集団ウィンター・ゲスツ(http://www.winterguests.com/)の主宰者・演出家・振付家であるアラン・ルシアン・オイエンが小島の舞踊人生に着想を得て創作したダニエル・プロイエットとの二人芝居の舞踊劇。2014年11月にフランスのノルマンディー地方のカーン国立振付センターにおいて最初のワークショップを開催して試演を行い、2016年5月にオスロ、同年6月から7月にかけてはアメリカのメリーランド州でリハーサルを重ね、同年11月のオスロでの世界初演に至った。歌舞伎舞踊振付を宗家藤間勘十郎が行う。また、2018年5月には静岡芸術劇場でおこなわれる「ふじのくに⇄せかい演劇祭2018」にて『シミュレイクラム/私の幻影』として日本初演。(参照:https://shojikojima.com/

–公的支援の在り方について

小島:毎年毎年いっぱいいろんなジャンルができるから、限りなく増えていくわけだし、自分たちで自由に活動している人々もたくさんいますね。どういうふうに、ふるいにかける、というのは変ですけど、何を尺度にして選ぶか。とても難しい問題ですよね。

–現在の日本のフラメンコのシーンをどのような状況だと感じていますか。

小島:今、日本のフラメンコの状況というのは、落ちついていると思うんですけど、芸術家というのは本来、もちろん瞬間瞬間の芸術もあるし、深く深く沈潜していって、どこにもないようなものをつくっていこうと努力している人と両方あると思うんです。やっぱりそれが見極められると良い。でも、そういう人はもう世界中から注目されて、そういう助成がなくてもやっていける人もいるのかもわからないけど、そこら辺のコンクールだったら、そのときだけになってしまうし。
何かそういう、違った意味での一番いい例だと、フラメンコで私も一緒に共演したイスラエル・ガルバン。この前来日しましたが彼なんかは本当にもう、フラメンコの中では一番上に叙せられていると思う。世界観も持っているし、この前、日本に来たのは、『FLA.CO.MEN』という作品で、それはヘレス(スペインのフェスティバル・デ・ヘレス)というフェスティバルにちょうど僕もお招きいただいているときに、初演を見てきた作品です。
…そういうふうに、世界中からお呼びをいただける、お招きいただけるような人は、フラメンコの中でも本当にほんの少しぐらいです。どのジャンルでもそうではないんでしょうか。私は最初、1970年ちょっとのころ、イスラエルのお父さんとお母さんと一緒に踊っていたの(笑)。そういう時代なんですよね。
…そういう人たちがいろんな意味でシーンを盛り上げていた。でも、スペインでもフラメンコはそんなに活発ではないのかな。ここ10年、20年前からそんな。ちょっと何か立ちどまっているかもわからないね。

–イスラエル・ガルバンのような新しいフラメンコについて

小島:新しいといっても、どの程度新しいかというと、何か彼の場合は舞踏のジャンルみたいなものもすごく自分の中に取り込んでいると思います。土方巽さんとか大野一雄先生というジェネレーションから、その後、日本から外国に行った山海塾の天児さんたちのほうからとか、もろもろあるから。イスラエルは舞踏、大好きです。僕なんかもスペインから帰ってきて、ずっとそういう新しい世界も自分でつくっていたんだけど、だから、彼(イスラエル)自身も僕の中の舞踏なんかを見たとか、そういうこともあるとは思うんですけどね。

たとえどんなにリファインされたものであったとしても、フラメンコの大きな根っこがあるので、それを甲羅のように背負っているということは、私は大事だと思って、今までは舞台をつくっています。

–舞踊の本質について

小島:舞踊の根源的な魅力というのは、どのジャンルも同じだとは思うんですよね。音楽にしても。だから、日本の三味線音楽でも何の音楽でもね。太鼓にしても。やっぱり心みたいなものは、それは地球規模だとは思うんですよね。アフリカのほうの始源の太鼓の響きだったりとか。でも、アフリカ大陸のああいう人たちの原始的な肉体の躍動感みたいなものと、日本の伝統的な能とか舞踏みたいなものは本当にオポジットですものね。
でも、お互いにそのすばらしさがわかり合えるみたいなところもあるし。
…もっと舞踊は誰のものでもあるという、そういうことも僕は思いますよ。もちろん自分自身はフラメンコだったり、もともと自分が培ってきたオペラやシューベルトやシューマンのドイツ歌曲やリートとかも歌っていた、そういうもろもろの蓄積が小島章司というアイデンティティになって、自分の舞踊形成の一助になっていると思います。だから、ストリートダンスにしても何にしても、みんな、それならそれの若いエネルギー、熱、熱風を感じるし、舞踏なら大野一雄先生みたいに、もう何にもなさらなくても静かな、微かな何かを発見できるとか。それに例えば僕がスペインから帰って間もなく、笠井叡さんの女性のお弟子さんが私の弟子に入門してきたりとかね。だから、やっぱり何かに引かれる力というのは、どのようなジャンルにもあって、素人、玄人とかあんまり関係ないかもわかりませんよね。人を動かす力というのは、何かを思い込めるかどうか。

–芸術の公的支援を考えるときに、舞踊の価値をどのように言語化できるか、数値化して測れないものの意味をどのように考えるべきでしょうか。

小島:そのまま勇気を持って行動していくことだと思いますよ。マジョリティとマイノリティの隔たりは、いつのころからこうなったのか。大衆的なそういうものと、昔あった浅草の女剣劇のようなものと松竹の歌舞伎とか、そういうものとどっちが芸術で、どっちが芸術じゃないとは誰も断定できないじゃないですか。だから、そういうときにやっぱりマイノリティだからと思わないで、自分たちの本当の正直な心をもって、自分自身を問いただして、自分の中で公平にバックアップしていくことが肝要かと思います。もうテレビや何かで広く知られるようになってしまったものだけではないと思うんですよね。もう草の根を探せば、本当にすばらしいもの、いっぱいあるかもわからないし。まあ、なかなか幅広く助成を打っていくのは難しい問題かもわからないけれど、あなたたちの立場だとしたら、やっぱりお客が入ってなくても、その人たちがどういう思いで、どのぐらいのことを社会にアピールしようとしているのかとか、その価値観に敏感になっていくことが大事なんじゃないでしょうか。

–新しい作品に取り組むとき、通底するコンセプトやお考えはありますか。

小島:私の場合は基本的には「美」ですよね。舞台の中が何か一つ足りなくても、もう美しさみたいなものがそこにあればいられるし。バレエもやったし、ちょっとしたコンテンポラリーダンスのほんのちょっとぐらいはやりましたけど、やっぱりフラメンコだから、そのフラメンコの、たとえどんなにリファインされたものであったとしても、フラメンコの大きな根っこがあるので、それを甲羅のように背負っているということは、私は大事だと思って、今までは舞台をつくっています。

芸術というのは本当に間口も広いし、奥行きも深いし、想像を絶するとか、想像を超えたとかいう、そういうところに生まれ出てくるものだと思うようになりました。

…ダニエル(・プロイエット。在ノルウェーのアルゼンチン人ダンサーで『シミュレイクラム/私の幻影』の共演者)がアルゼンチンでどんなに困難を背負って、ヨーロッパに永らえてきたか。あのぐらいの世代でも、男の子がバレエをやり続けていくのはどのくらい大変だったかとか。何か認められないと続けられないからと、ヨーロッパのそういうコンクールに進出してきたりして、演出家のアラン(・ルシアン・オイエン。ノルウェーの芸術家集団ウィンター・ゲスツの主宰・演出家・振付家)とめぐり会えたりとか。そうこうして、バレエをやったり、コンテンポラリーダンスをやったり、作品をヨーロッパで発表したり、それから、なぜか知らないけど、日本舞踊がやりたいとか言って、(プロデューサーの)伊藤久さんの薦めで、藤間流の御宗家だったり、藤間綾さんに習って。もう何度か日本に来ているんですけど、私も今度は作品でご一緒すると。私も子供のころはクラシック音楽で、ピアノをやって、オペラを歌って、もともとはシューベルトやブラームスのドイツリートが好きでやっていたんですけど、いつの間にかこうなった。フラメンコになってしまって(笑)。だから、それをアランがおもしろがって、『シミュレイクラム/私の幻影』でいろんなものが織り交ざった舞台を設置したということなんです。
…芸術というのは本当に間口も広いし、奥行きも深いし、想像を絶するとか、想像を超えたとかいう、そういうところに生まれ出てくるものだと思うようになりました。またね。だから、70半ばになって、初めて彼らとめぐり会ったりして、だから、本当に最初は半信半疑で、「えっ、本当に僕みたいな人と踊りたいと思っているの?」みたいな。
…もちろん今までいろんな方がそういうことを試されたと思いますけど、やっぱり多分、ダニエルが30幾つ、僕が70幾つ、そういう2人だけの(『シミュレイクラム/私の幻影』のような)舞台というのはちょっと他にないかもわかりませんよね。それで、再演がすぐ決まったんですね。パリのシャイヨー宮ってご存じ?シャイヨー宮の中にあるシャイヨー国立劇場での再演が。パリ・オペラ座、オペラ・ガルニエの次ぐらい格式が高いところなんですけど。だから、そういうことがやっぱり、何ていうのかな。そういうことを実証していくというのはとても喜ばしい出来事だと思います。

玄人から、素人から、みんな見たいという欲求が生まれるようなパフォーマーが出現することも大事だし、それはたやすいことではない。

–今まで長い舞踊人生の中で、この作品ぐらい何か大きなインパクトがあったものというのは、やっぱり今まででもおありだったんですか。

小島:そうですね。今までもちろん私がスペインから帰ってきて、日本人の自分のアイデンティティみたいなもので、初めて能の『葵上』(『小島章司のフラメンコの世界’85第1部:瞋恚の炎-葵上より-』)を上演したとき、「文化庁芸術祭賞※4 」をいただいたんですけど、そのとき、お能の方をお願いしたんですね。そうしたら、あるお能の方によると僕のフラメンコに参加するのは、いわゆるこう、なかなか認められなかった。1985、6年でしょう。お能の鼓だとか、太鼓だとか、大皮とかいろいろお願いしたら、そういう方は先生に、そのころは許可をお願いしていたみたいですね。だから、ちらっと聞くと、フラメンコごときに参加するのはちょっとはしたないとか、ちょっと違うという、まだそういう時代だったんです。たかだか80年代の半ばです。30年前ですけど。
…ディディエ・デュシャン(シャイヨー国立劇場のディレクター)、彼はなぜか僕のことが気になっていたのか、僕が3月にヘレス・デ・ラ・フロンテーラというまちのフラメンコフェスティバルで、『A este chino no le canto』(「この支那人には歌ってやらないよ」の意)という作品を上演したとき、見にきてくださっていたんです。(自分がスペインに渡った)その当時、やっぱりそうなんです。日本人だから、僕が大抜擢受けて、スペインのマドリッドでデビューするとき、歌い手が「おまえなんかに歌ってやんない」と、そういう事件があったんですよね。まあ、文化的な事件ですよね。だから、それを作品にして。そのときエバ・ジェルバブエナとかミゲル・ポベーダと、日本でいえば、村田英雄さんとか三波春夫さんみたいな、今、闘牛場がいっぱいになるぐらいの歌い手さんに出てもらって、大成功で。その公演をディディエ・デュシャンが見にきてくださっていたんですね。それで、今度はもう即、ノルウェーで(の『シミュレイクラム/私の幻影』の初演で)決定して、来年(2017年)の11月の上旬に2日間シャイヨーで踊ることに決まっているんです。わりと即決まったみたいな経緯があるから、ああ、よかったなと思って、彼たち(ダニエル・プロイエットたち)のためにもね。そういう違った広がり、自分の守りだけじゃなくて、いつまででも、中も向いているし、外も目を向けているような立場にいられればいいかなとは思うんです。

※4 文化庁芸術祭賞:文化庁芸術祭は、芸術祭の期間中に開催される公演のうちから、それぞれの部門で内容を競い合い,成果に応じて文部科学大臣賞(芸術祭大賞,芸術祭優秀賞,芸術祭新人賞)が贈られる。(参照:http://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsusai/

–舞踊芸術の世界が少しずつ変わってきている中で、どんなことがあると活動の維持や、発展ができるか、何か気づかれることはありますか。

小島:やっぱり何のジャンルでも隔絶されたようなパフォーマーと言ったらいいのか、ダンサーというのか、何かそういう突出した人、スーパースターですよね。東京バレエ団の(故)佐々木忠次さんがずっと招いていたシルヴィ・ギエムであったりとか、僕の時代だと、パトリック・デュポンとか、何ていうのかな。それはバレエですけれども、もろもろそういう本当に玄人から、素人から、みんな見たいという欲求が生まれるようなパフォーマーが出現することも大事だし、それはたやすいことではない。
インターネットで宣伝がそれほどのものじゃなくても、そういう(アナログで地道な)宣伝の仕方をしている人もいっぱいいると思うし、何かこう、ちょっと紛らわしくなっているかも。昔だったら評判というのは、僕の時代だと、60年、70年代、パリなんか行ったって、本当に八百屋のお兄ちゃんでも、魚屋のお兄ちゃんでも、きのうのオペラはもうすごかったとかそういう会話。会話に確かに出てきていたんですよ。 
…あまりにも人間、忙し過ぎるのかな。やっぱり心も体もリフレッシュ、改めて、夕方には着がえて、劇場に足を運ぶということが(あると良いですよね)、若者たちはどうなんでしょうか。ちょっとそういう感覚が足りなくなっているのかな。もとを正せば、そういうけじめのつけ方というかね。
…今の若者カルチャーの“かわいい”とか何とかそういうこともテレビなんかに取り上げられたりね。もう世界中がそんな感じで、そういうこともあれだけど、それは一つの現象であって、やっぱり音楽とか舞踊とかそういうものに対する、あまりにも興味が薄れてきているのかな。多様化し過ぎているんでしょうか。

–すぐれたものに、小さいころから触れる素養が必要ということでしょうか。

小島:今はもう、うちのダンサーたちも何人かは本当に上手なんです。だけども、上手なんだけども、「おまえ、ちゃんとスペイン語やってるのか」と言ったら、無言で返事もないし。もうちょっと多面性を持って生きていかないと、何か狭くなっちゃうと思うんですね。

–スーパースターのような存在をサポートすることが芸術の世界をもっと次に高めていくこととして大事だと。

小島:見極めが難しいですね。やっぱり日本はもうプロフェッショナリズムが確立できないから、(例えば日本人の有力なバレエダンサーは)オスロでもいっぱいいるし、アメリカでもいっぱいいるし、アメリカンバレエシアターにもいましたね。もちろんそれは自由競争だから仕方がないんですけど。そういう意味ではなかなか大変ですね。日本は新国立バレエ団ができましたが、結局、それよりも古くから(民間の)バレエ団…谷桃子バレエ団、東京バレエ団というふうにあったわけですから、それはそれで主張があると思いますし。

–さきほど、仰っていた“美”ということについて。

小島:私の場合、舞台というのはやっぱり美の結晶であるべきだとは思っているんですけど、なかなかね。何かこう、どの細部も把握しているというのは並大抵なことじゃないですものね。

–次の世代を育成したいという考えはありますか。

小島:育成としては、理想を言えば、そういう公立のバレエじゃないけど。でも、日本はフラメンコじゃない国で、フラメンコの公的なそういう機関をつくるというのは大変なエネルギーだと思うんですよね。
…ただ、僕は今、新国立劇場のバレエ研修所の中のスパニッシュダンスのジャンルで、ずっともう何年も教えています。せいぜい週に1回なんですけどね。それは担ってはいるんですけど、まあ、フラメンコの場合は、最終的にはやっぱりスペインへ行って、違った意味でのその土地その土地の(物を学ばないと)。アンダルシアであったり、例えばアンダルシアでもセビリアを中心としたヘレスとかあそこら辺と、グラナダなんかとはまた全然違うし、首都マドリッドでやっているものはまた違った総合的なものであったりとか。日本でそういうフラメンコのコンセルヴァトワール(公的な文化保全機関)みたいなものがあればすばらしいけど。
…真髄というのは、自分の心の中でみんな違うし、でも、やっぱりフラメンコは、フラメンコ人口、僕たちの時代はそんなでもなかったですけど、今は踊る人は増えていると思いますしね。向こうも。それはやっぱりいろいろ切磋琢磨して、スペインでもやっぱりスペイン語を通して、スペインの空気を吸って、そういうことも大事なことだと思います。スペイン語でものを思考をするとかね。


小島章司
フラメンコ舞踊家
1939年徳島県生まれ。武蔵野音楽大学声楽科卒。66年渡西、76年帰国。86年『瞋恚の炎』で芸術祭賞受賞。舞踊批評家協会賞(計4回)、芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。2000年スペイン国王よりイサベル女王勲章オフィシアル十字型章を受章。03年紫綬褒章受章。07年『戦下の詩人たち』で天皇皇后両陛下の御観覧を賜る。09年スペイン国王より文民功労勲章エンコミエンダ章を受章。同年度文化功労者に選ばれる。16年最新作『シミュレイクラム』をオスロ・オペラハウスで初演し、17年4月にアメリカのヒューストン、11月にはパリのシャイヨー宮、18年5月に静岡芸術劇場・ふじのくに⇔せかい演劇祭に出演。
小島章司フラメンコ舞踊団:https://www.shojikojima.com/


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