東京芸術文化創造発信助成【長期助成】活動報告会
アーツカウンシル東京では平成25年度より長期間の活動に対して最長3年間助成するプログラム「東京芸術文化創造発信助成【長期助成】」を実施しています。ここでは、助成対象活動を終了した団体による活動報告会をレポートします。
2018/11/26
第4回「創作と上演を積み重ねて見えてくる作品の成熟とは 〜ダンス・カンパニー ニブロールのアジアでの挑戦〜」(前編)
対象事業:ニブロール「新作ダンス公演 国内・海外公演」(平成25年度採択事業:3年間)
スピーカー(報告者):矢内原美邦(振付家・演出家・劇作家、ニブロール主宰)、高橋啓祐(映像作家)、SKANK/スカンク(音楽家)
司会進行:企画助成課シニア・プログラムオフィサー 北川陽子
助成対象活動の概要
振付家・矢内原美邦を中心に、 映像作家・高橋啓祐、音楽家・SKANK/スカンクなど様々な分野で活動するメンバーが集まり舞台作品を発表するダンス・カンパニー ニブロールの「リアルリアリティ」のクリエーションにあたり、平成25(2013)年度より3年間に渡り東京芸術文化創造発信助成の長期助成を受け、和歌山・愛知・東京でクリエーションワークショップを行い、各地の要素を取り入れて創作、上演。その後、国内・アジアツアーを実施しました。
第1部:旅を重ね、思考を重ねた未来志向のプロジェクト
平成25年度の長期助成プログラム第1回に採択されたニブロールの『リアルリアリティ』は、矢内原美邦さんが振付する「ダンス作品」でありつつ、ダンスや舞台に関わる人たちを数多く巻き込み、思考と実験、実践を重ねる「プロジェクト」でもありました。報告会の第1部では、矢内原さんを中心に、映像を担当する高橋啓祐さん、音楽のSKANK/スカンクさんを交え、ニブロールの立ち上げ(1997年)から現在までの大まかな流れと、『リアルリアリティ』の創作のプロセス、そこで得た手応え、アジアでのワークショップ、公演に至るまでの流れが紹介されました。
(文:鈴木理映子)
芸術作品の創作現場にとって、「効率」と「ムダ」のバランスは、常に頭を悩ます問題だろう。多くの「ムダ」な思考、実験の積み重ねから、新たな表現が生み出されることは、誰もが理解している。そもそも、社会経済の「効率」という価値観からズレたり、逃れたりすることを志向して、芸術に取り組むのだから。とはいえ、締め切りがあり、予算があるからこそ、完成形が形作られる面も否めない。何より「ムダ」は、経済的、時間的な余裕があって、初めて可能な贅沢でもある。
ニブロールが長期助成プログラムを使って実現しようとしたのは、まさにこの「贅沢」を有機的に作品づくりにつなげる仕組みだった。スタートは、2014年にのべ2カ月をかけて、和歌山、愛知、東京の3カ所で行ったリサーチとワークショップ。翌年1月に初演される新作『リアルリアリティ』に向けたこの取り組みは、よくある作品づくりのためのワークショップとは少し異なるものだった。
「ワークショップに参加してくれた人が出演もする、というのがよくある形だと思うんですけど、ここではそうではなく、みんなで作品について考えること、話し合うことを目的にしました」(矢内原)。
『リアルリアリティ』のテーマは、テクノロジーの発達により失われつつある身体のリアルを探すこと。和歌山では、矢内原が教える近畿大学の学生を中心とする参加者と、ゴミ処理場を訪ねたり、テニスコートを使ったり、稽古場や劇場ではできない体験をしながら、物と人との関係を掘り下げる作業が重ねられた。続く名古屋、東京でのワークショップでは、ダンサーを中心とするメンバーで「自分たちの身体がどこにあるのか、今なぜ、身体の感覚が実感のないものになっているのか」を話し合い、具体的なふりを構築、どのように空間を埋めていくか試行錯誤を重ねた。
「このワークショップでは、トータルで80人くらいの人が、ダンスだけではなく、映像や音楽をやりたい、美術をやりたい、制作をやりたいといったジャンルに分かれて、同じテーマについて考え、何かつくろうとしました。それだけの視点があれば、コンセプト自体も多様化しますよね。その視点やそこで作ったものがすべて舞台に採用されるわけじゃない。でも、いろいろなかたちで作品に反映されているとは思うし、そういうことはなかなか経験したことがないもので、とてもよかったです」(高橋)
「和歌山でやったワークショップで発見したことを、名古屋で発展させ、そこで見つけたことをさらに東京で発展させ、最終的にはニブロールのメンバーで作品にしていく。そういう段階を踏んで作品が構築されていくのは、毎回新しい視点を得られて面白かったです」(SKANK/スカンク)
こうして完成形へとステップを重ねた『リアルリアリティ』は、2015年1月に世田谷のシアタートラムで幕を開け、ワークショップを開催した和歌山の上富田文化会館、名古屋の愛知県芸術劇場を巡演、大地の芸術祭・越後妻有トリエンナーレ、シンガポール・インターナショナル フェスティバル オブ アーツでも上演された。ダンサーはワークショップ参加者とは別にオーディションを開催して決定、20、30、40、50代のダンサーが1名ずつ出演した。矢内原自身は「それほど思い切った違いは出なかった」とも言うのものの、その身体にはやはり世代ごとに異なる背景、時間があり「一個の人生を舞台に乗せ」ているかのようなリアリティを感じさせたという。また、越後妻有トリエンナーレでは作品上演のほか、展示発表も行い、和歌山のワークショップでの様子を一部映像で紹介した。
さらに翌2016年、同プロジェクトは、前年の8月から矢内原が文化庁の文化交流使に任命されたのを機に、アジアへも活動域を広げていく。1月はインドネシア・スラカルタとベトナム・ハノイで公演。3月にはインドネシア・ジャカルタでも、地元の大学(Institut Kesenian Jakarta、以下IKJ)でダンスを学ぶ学生たちが同作の再構築に挑むワークショップ公演が行われた。公演に際しては、どの土地でも短期間のワークショップを開催、ここでも作品のコンセプトを体験、共有する取り組みがなされた。ワークショップの参加者の出席率もまちまちだったり、イスラム教の祈りの時間のために稽古や準備を待ったり、文化的背景の異なる国での活動には、日本とは異なる体験も数多くあったが、それも含めてカンパニーのメンバーにとっては刺激的な経験だったという。特にジャカルタのワークショップ公演は、日本での公演とは一味違うものになったようだ。
「リアルリアリティ」ベトナム・ハノイ公演
「ジャカルタのIKJでは映像と音楽ワークショップというか、講義みたいなものもやりました。向こうの学生さんたちはみな、すごく好奇心も旺盛で、作品に対して積極的にかかわってくれて。だからいい関係で作品をつくれたなと思っています」(高橋)
「ジャカルタで衝撃的だったのが、街の音っていうと、車の音しかしないこと。で、この車の音がなくなったとき、一体どんな音が残るんだろう、と生徒たちと話しながら、“まちの雑踏”の音をつくっていきました」(SKANK/スカンク)
「それまでの公演では、自分たちがつくってきた作品を上演するだけだったんですけど、IKJのワークショップ公演では、音にしても誰かが録音してくれたものをそのまま使ったり、映像も学生たちが家に帰って撮ってきたものをそのまま舞台にのせたりして、日本でつくったものとは違う風景が作品の中に立ち上がっていく感じがありました」(矢内原)
3年間にわたる『リアルリアリティ』プロジェクトにおいて特筆すべきことは、そのプロセスの豊かさだろう。どれほどオープンなクリエーション、稽古場を心がけてはいても、これほど多くの、多様な、年齢も国籍も関心も異なる人間たちが、同じ作品、テーマについて、考え、話し合うことはまずない。また、具体的に舞台で結実したアイデアはごくわずかとはいえ、このプロジェクトを通じ、ニブロールの、そしてコンテンポラリー・ダンス作品のクリエーションの一端を体験した者たちは、日本国内はもちろん、国外にまで広く存在する。『リアルリアリティ』はいったん幕を閉じたが、彼らが今も、それぞれの思考や活動を続けているとしたら、それこそダンスの未来にとっては、「ムダ」どころか、有用な投資だった、と言えるのかもしれない。
第2部:深堀インタビュー
第2部では、アーツカウンシル東京のプログラム・オフィサー北川陽子の司会で、長期助成の対象となった『リアルリアリティ』がどのような問題意識の中で準備されたか、アジアでの具体的な人脈づくりなどについて聞くインタビューが行われました。矢内原さんの熱いお話しぶりからは、日本のコンテンポラリーダンスの現場が抱える様々な問題と未来への課題も見えてきました。
——『リアルリアリティ』は、2013年から私どもで助成をさせていただき、2015年に初演された作品です。長期助成プログラムに申請をされた際には、この一つ前の作品『see / saw』(2012年)を越後妻有でクリエーションされた経験から、アーティスト同士の新しい共同作業の在り方や新たな作品創作のプロセスを探求するというような目標を掲げていらっしゃいました。その成果についてはどのように考えていらっしゃいますか。
矢内原 ニブロールは「カンパニー」とうたってはいますが、実際はそうなってはいません。というのは定期的にお金を支払って、ダンサーを雇うということができていないからです。日本で、ヨーロッパと同じような条件で「カンパニー」と呼ぶことができるのは、金森穣さんが芸術監督を務めている新潟市のNoismくらいです。私たちも若い時には楽観的に、いつかそういうシステムができるだろう、20年もあれば環境整備がされて、能力さえあればダンスカンパニーとしてやっていけるだろうというふうに考えていたんですね。でも、実際に20年が経ってみると、コンテンポラリーダンスというジャンル自体がどんどん縮小していく傾向にあるし、その魅力を一般のお客様に伝えるということもなかなかできない状況がある。でも、それをどうにかしていきたいという思いは、どんな振付家にもあるわけです。だからダンサーをきちんと雇いながら、育てるということを、この『リアルリアリティ』ではやってみようと思いました。
結果、この作品では、2013年からの3年間で4人の素晴らしいダンサーと共同作業することができました。本番はもちろん、リハーサルのぶんも給料をお支払いしてというかたちで、です。4人のうちの2人は、バレエを教えたり、大学で講義をしたり、といった自分の仕事も持っていましたが、まだ20代と30歳になったばかりのダンサーについては舞台のリハーサル以外のところで、どういうふうに伸ばしていけるかが課題にもなりました。そこについてはまだやりきれていないところもあります。
ただ、いろいろな人と出会って作品をつくったということ自体が成果だ、とも言えると思うんです。役者でもダンサーでも、その作品に対してどのくらい真剣に取り組むことができるか、というのが、演出家や振付家、観客からの評価に繋がっていくものです。でも、ワークショップの参加者の中には、それに達していない人もいるわけです。それに対して、お金を払うことはできない。でも、彼らとも一緒にクリエーションについて考えていくことができれば、それがコンテンポラリーダンスの面白さを伝えることにもつながるんじゃないのかなと。
この作品の全国ツアーでは、必ず公演場所で先にワークショップをして、クリエーションにつなげるということをしてきました。たとえ舞台に立てなくても、その時につくった振りが作品に使われなくても、40人なり50人なりが「一緒に考え、舞台をつくった」という感覚を持てるのであれば、パッと見では難しくてよく分からないと言われるコンテンポラリーダンスについての理解を深めることになる。そういう方を観客の中に増やしていくという意味では、成功したかなと思っています。
左から:SKANK/スカンクさん、矢内原美邦さん、高橋啓祐さん
——『リアルリアリティ』のワークショップに参加し、舞台にも出演されたダンサーの方々は、その後もニブロールの作品に出ていらっしゃいますか。
矢内原 ここで紹介している3年間だけです。本当は育てていかなければならないし、そこに普通のダンスカンパニーのチャンスというのもあるはずですが、資金力がない。昔のように「資金はないけど気持ちで出ろ」なんてことは言えないなと思います。ダンサーは皆、すごく労力を使って、ダンスの技術を習得してきたわけですし。
以前『パルス』という作品で、結構、技術力の高いダンサーに出てもらったことがありました。当時は本当にお金が払えなくて、友達に出てもらうという感覚だったんですが、そこでやはり、問題が起こる。手作りでやっているんだけど、みんなで手分けしてリノリウムを敷いたり、弁当を買いにいったりってことが「ダンサーがやることじゃない」みたいになるんです。小劇場だと、俳優だってリノも敷けば弁当も買いにいきますよね。ダンスでも、それが日本の状況で、ヨーロッパとは違うんです。だから、当時は私の方も「じゃあ、もういいよ」と。ユニゾンなんて一生やらなくていいし、別にうまく踊れなくても表現力さえあればダンスはつくっていけると思ってましたから。それでしばらくは『コーヒー』もそうですけれど、ダンスらしいダンスをやらなくなった時期がありました。それでも、スタッフにかかるお金と演者にかかるお金が違うとか、スタッフには払われるけど、演者には支払われないというようなことは絶対したくなかったので、レベルに合ったペイはしっかりしてきたつもりです。
——ニブロールの活動と、この『リアルリアリティ』という作品が、どのような位置にあるのか、改めてご説明いただけますか。
矢内原 ダンスしかやらない人にはあまり興味がなく、10年くらい「出来上がった身体なんて大嫌い」という時期が続きました。「何がピルエットだ、何がパッセだ」「パッセとかだっせえ」みたいな感じでずっとやってきて。だから、ダンスの評論家やダンスをやっている人たちに、「ニブロールはダンスじゃない」と叩かれてもきました。それでもやっぱり、一人ひとりの人が持っている身体能力の面白さというのはあるんです。「みんなは踊れないんだから、走るしかないよね」と言ったら、「僕たちは走るしかないです」と一生懸命、一回一回がこれで終わりになってしまうかもしれないという姿を見せる。その瞬間は美しくて、身体というものがそこにある実感がある。バレエやモダンダンスで怪我をしないように踊るとか、そういうものとは違う、この一回で舞台が終わりなんだという、瞬間の美しさはとても魅力的でした。ただ、あまりにも「ダンスじゃない」と言われてきたこともあって、『ロミオORジュリエット』(2007年)では、「じゃあ、ダンスをつくるぞ」と、ダンサーを雇ったんです。そこから5年くらいはダンスというものをやってみようと。
その中でも『リアルリアリティ』のひとつ前の『see / saw』は、またちょっと特別な作品でした。東日本大震災が起こった時、あらゆるアーティストがそれに応答する作品を作り始めました。でも、私は四国の出身で、生まれたところも東北とはかけ離れています。ですから震災をテーマにして何ができるのかという疑問はすごくあって。でもちょうど取材で東北にいかなければならないことがあって、そうすると、今までに見たこともないような風景が広がっているんです。すごく驚きましたし、こんなにたくさんの人が亡くなったんだということを、今、作品にしておかないと、一生、忘れ去られていくものに対する作品をつくることはできないと思いました。それが『see / saw』で、この作品は、横浜市と一緒にYCCヨコハマ創造都市センターというところで1カ月公演しました。
その2年後くらいに、世田谷パブリックシアターから新作をやりませんかという話をもらってつくったのが『リアルリアリティ』です。震災よりも前から演劇の戯曲を書き始めて、岸田戯曲賞というのももらったんです。それで、ちょっとずつ演劇をやらなきゃいけない状況になり、役者とずっと一緒にいたこともあって、今度はできあがった身体と何かをやってみたいと考えていました。だから、この時は大嫌いだったアラベスクとかピルエットとか、ユニゾンもふんだんに使った作品になりました。
——とはいえ『リアルリアリティ』も、「ダンス」の作品でありながら、ワークショップを通じて、その瞬間でなければ生まれない動きを取り入れられていましたね。
高橋 日本国内でワークショップをした時にも、何人かアンサンブルで本番にも出てもらったりしました。アジアではそんなに時間がなかったんですが、それでもいろいろなアプローチで関わってくる人を受け入れられる、そういう性質がこの作品にはあったんじゃないかと思います。ワークショップ自体は無駄がすごく多くて、そこでつくったもののほとんどは舞台にあがらないんです。でも、その無駄こそがこの作品を支えているというか。あれだけの無駄をかけて作品をつくるというのはとても贅沢なことじゃないかなと思います。
——日本国内とアジアでのクリエーションのあり方は違うものでしたか。
高橋 国境を越え、何がリアルなのかってところから始まっていったのがこの作品で、映像もそうですが、今の世の中ではインターネットを通じた情報を得て充足するというか、身体を省略することが増えている。そこに何かしらの違和感や不安を抱えている人は世界共通でいますし、そういう共通項を見つけられたことも、うまくいったポイントだったと思っています。
矢内原 高橋君がさっき言ったことはとても重要で、一見無駄なことでも、それを積み上げていくことで社会に対して何ができるのか、ってことだと思うんです。たとえば、ワークショップでも、自閉傾向のある人が来たり、途中でいなくなったりする人がいるんですね。で、私たちはその不在を受け入れて進む。でも、そうやっていろいろな人と無駄な時間を経験する中で、その人たち自身も変わっていくし、私たち自身が作品を通して見るものも変わってくる。それは本当に贅沢な時間だったと思います。
東京でのワークショップ
——インドネシアとベトナムでは、それぞれどのくらいクリエーションの時間をとられたんですか。
矢内原 出演してもらったのは、どちらも一人のダンサーだったので、1週間なり2週間なり、がっつり稽古しました。ただ、ワークショップは、3日間限定にしたんですね。それでも、1日10時間以上なんですが。中には、1日目に来て疲れちゃったから次の日は来ないけど、最終日は来ますという人とか、最後の日だけちょっと見にきたというような人もいました。日本で舞台に関わっていると、そういう人って会わないんです。でも、そういうような、必ずしも自分ではやらなくてもいいけど、少しは興味があるような人たちと、どのようにその場を共有していくか。つまり、プロフェッショナルじゃない人たちと関わっていくということは、とても勉強になりました。私たちにとっては、本番は特別な日で、稽古が日常です。その日常の中で、普段関わらないような人たちと出会えたことは大きかったです。
——ワークショップでの経験、そこで試みたことなどを、今後、方法化して、さらに作品作りに生かすというようなことはされていますか。
矢内原 してないですね。それは時間もかかるし、大変だから。でも、一緒にものを作る機会や1時間でも話す機会を設けるということが、観にきてくれる人たちにより深く作品を理解してもらうきっかけにもなると思いますから、本当はやった方がいいです。それも一つの課題です。そのためのエネルギーとパッション、お金と時間があれば、やれるとは思います。
——『リアルリアリティ』でそれができたのは、3年間の長期助成があったからこそということですか。
矢内原 そうですね。それだけ時間がかけられましたから。いちばん最初に3年間の助成の中で何をやるのかを話し合った時に出てきたのが、普段できないような、情熱や時間が必要なことをやろうということでした。ワークショップの場合、実際に開催するのは3日間でも、まずはこういう形式でワークショップをやりたいという話をしにいって、その地域はどういうところかというリサーチをして……というように準備が必要なわけです。地域ごとにやること、やれることも違って、和歌山だとダンサーはいないけど、ゴミ処理場が近くにあるから、使われなくなったものをどう再利用できるか考えようとか、愛知は大都市でダンスをやりたい子がいっぱいいたり。今、ニブロールのワークショップがきっかけになって、愛知県でコンテンポラリーダンスをやる人が増えて、「ナゴコン」というグループをやっていますけど。それで、実際にワークショップをやる時には、名古屋だと50人でちょうどいいんだけど、東京だと100人集まったので、書類で50人に減らしたりだとか。そういう地域差はリサーチしながらわかってきたことです。
——そういったリサーチについては、受け入れる側の文化施設の協力も不可欠だと思います。アジアではそれはどういうかたちで進められたんでしょうか。中でも、インドネシアのスラカルタは、日本の方にとってそれほどなじみがないと思いますが、どのようにコネクションをつくりましたか。
矢内原 2004年にシンガポールで、「フライングサーカス」というプロジェクトに参加しました。アーティストが集まって半年間旅をしながら毎夜ミーティングをするんですが、結果は残さなくてもいいというもので、そこで、昨年「サンシャワー」展(森美術館・国立新美術館)でも来ていたメラティ(・スルヨダルモ)さんと一緒だったんです。いろいろなところを回っているうちに、メラティさんと、これも今や有名なアーティストになってしまったベトナムのティファニー・チュンとすごく仲良くなったんです。
それで『リアルリアリティ』をやる前に「実はこういう作品をやりたいんだけど」と言ったら、メラティさんは偉い人になっていたので、スラカルタって通称「ソロ」というんですけど、そこに芸術大学があって、ジャカルタよりコンテンポラリーダンスにも興味を持っている人たちがたくさんいるので「是非(自分も住んでいる)ここで」と言ってくれました。今はYouTubeがあるので、ニブロールが来ると聞けばみんな一生懸命動画を見るんですね。劇場の前にも、日本じゃ考えられないくらい、すごい人が集まってくれて。ベトナムもインドネシアも人口が多いですからね。それで国民の平均年令が28.5歳とか、かなり若くてエネルギーがあふれています。だから、ベトナムのユースシアターも、前から活動を通じて、レ・カイン(ベトナムの女優)さんを知っていたので「やりたいんだけど」と言ったら「できるようにする」と言ってくださいました。
こういうつながり方は、結構、ヨーロッパやアメリカとも似ているかもしれません。2000年から2005年まではヨーロッパやアメリカのツアーをよくやったんですけど、サンフランシスコをやったら、次は「ベルギーのここでダンスフェスティバルがあるからどうだ?」というふうにどんどんつながっていてツアーをすることができたというのがあるんです。それと同じように、東南アジアではアーティストがキュレーターの役割も果たしているイメージがあります。
私も20代くらいまでは日本をアジアの大国だと思っていたんですけど、実際に訪れるとそんなことはなくて、逆に取り残されている部分もたくさんあって。しかも東南アジアの芸術では、国からのお金というのは一切ないんですよね。ただ、スペースを借りるのはとても安いので、それでも芸術活動をやっていこうという熱い思いと、場所があれば、アートの活動をつなげていくことができるし、それが重要なんだということをメラティさんも、ティファニーさんも言っていました。
それから東南アジアでは、「社会に対してどういうふうな訴えができるのかを考えた時に、作品をつくるしかなかったんだ」という声をよく聞きました。私が日本で作品をつくっていた時は、それほど社会のことは考えていなかったです。ただ自分たちが作品をつくりたいからというだけだったんですが、それじゃダメなんだな、ということが彼らと旅をしていて実感したことです。それはアメリカやヨーロッパの作家でも同じことですね。
>第4回「創作と上演を積み重ねて見えてくる作品の成熟とは 〜ダンス・カンパニー ニブロールのアジアでの挑戦〜」(後編)につづく