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DANCE 360 ー 舞踊分野の振興策に関する有識者ヒアリング

今後の舞踊振興に向けた手掛かりを探るため、総勢30名・団体にわたる舞踊分野の多様な関係者や、幅広い社会層の有識者へのヒアリングを実施しました。舞踊芸術をめぐる様々な意見を共有します。

2020/01/21

DANCE 360 ― 舞踊分野の振興策に関する有識者ヒアリング(27)彩の国さいたま芸術劇場 舞踊プロデューサー、Dance Dance Dance in Yokohamaディレクター 佐藤まいみ氏

2016年12月から2017年2月までアーツカウンシル東京で実施した、舞踊分野の多様な関係者や幅広い社会層の有識者へのヒアリングをインタビュー形式で掲載します。

彩の国さいたま芸術劇場 舞踊プロデューサー 佐藤まいみ氏
インタビュアー:アーツカウンシル東京、宮久保真紀(Dance New Airチーフ・プロデューサー)、林慶一(d-倉庫 制作)

(2017年1月18日)


※2020年1月に再編集したインタビュー内容を掲載しています。

──公共劇場での舞踊公演の現状についてどのように感じていますか。

佐藤:日本の公共劇場が自主的に主催する企画としてダンス事業の分野に取り組み始めた歴史はまだとても浅くて20年か25年ぐらいです。日本では公立劇場でも貸しホールという制度が優位を占めていますから、劇場が担う役割はそれぞれの劇場によって多少違う。近年のダンス事業についてここ数年の推移を考えてみると東京首都圏の700~1,000人収容規模の公立の劇場では自主製作の新作公演や海外からの招聘公演が減少していると感じます。でも共催/提携という収支のリスクは出演カンパニーが負うという形の公演は確実に増えていますね。劇場に公演を観に行くとチラシの束が配られますが、これを眺めていると―これも日本特有の文化になっていますが―観客の収容人数が100~200人規模のスペースの小規模なスタジオ公演がとても活況を呈しているように見えます。こういった小さなスペースでのダンス公演は種々のコンクールで受賞した若手が新作に挑戦するいい機会にもなっていますよね。
現在どうしてこういった状況になっているのかを考えるために、ちょっと時代を遡ってみますね。私は1994年から2005年まで『神奈川国際芸術フェスティバル・コンテンポラリーアーツシリーズ(神奈川芸術文化財団主催)』※1 のプロデユーサーとしてダンス・身体表現の企画立案に関わって、その後、2005年から彩の国さいたま芸術劇場の舞踊の企画に関わっていますが、神奈川芸術文化財団立ち上げの時に、公立劇場の大きな変化を目の当たりにしたのでその当時を振り返ってみたいと思います。

※1:神奈川国際芸術フェスティバル:1994年に開始。参照:http://www.kanagawa-arts.or.jp/festival

1990年代半ばは日本全国に演劇やダンス、音楽の専門劇場として新たなコンセプトで生まれた国立、公立の劇場が日本全国に数百館も立て続けに生まれた時期ですが、その頃には公立の、公共の劇場はどのような目的を持ち、どのように運営されたらいいのかという議論が全国的に盛んでした。質の高い同時代のクリエイティブな公演を上演する場であり、その企画内容は舞台芸術畑の専門家に任せようというのがその頃の大方の意見でした。地方自治体の新生劇場の運営を支えるための国の施策も進められていました。時代は世界的レベルの文化芸術の潮流に乗り遅れるなという感じで、現代ダンスの公演に対する国内の劇場側の関心や理解や必要性もそのような議論の中で生まれていったのです。
さて、そこで日本全国に一気に生まれた何百という劇場で一体何を公演するかが問題となりました。劇場は2年ぐらいで建ってもその劇場を観客でいっぱいにできるダンスグループは一朝一夕には生まれません。90年代はまだヨーロッパで新しい動きを見せていたダンスも含む現代舞台芸術の状況は今のようには国内では知られていなかったので、そういった海外の作品に対する関心も高かったのです。なので海外で評価の高いダンスカンパニーを招聘するというのはプログラムの選択肢にある程度の地位を占めていました。ダンスは言葉を使うこともあるとはいえ音楽やビジュアルで伝わるので文化が違っても理解しやすいと考えられていて注目度が高かったのです。
あれから20年以上が経ったわけですが、その間に日本は経済的、社会的な大きな変化にも見舞われ劇場を取り巻く環境は大きく変化していってます。2003年に指定管理者制度※2 が導入されたのは公立劇場にとっては大きな変化の一つだったと思う。さいたま芸術劇場では公演の収支比率が一定のパーセンテージに達しない企画は通らなくなっています。
そういった推移の中で公立の劇場である規模を持ったダンスプログラムに取り組む劇場が少なくなってきたのかなと。海外アーティスト作品の招聘もツアーなどは他劇場と出費をシェアするのが当たり前になっていますよね。経済的な事情が優先されてプログラムが決定されているのが現状かなと。

※2:指定管理者制度:地方自治法の一部改正で2003年6月13日公布、同年9月2日に施行。従来公の施設の管理主体は出資法人、公共団体、公共的団体に限定されていたが、管理主体を民間事業者、NPO法人等に広く開放することで、民間事業者等が有するノウハウを活用し、施設管理の質を高めることを目指したもの。指定管理者による管理が適切に行われているかどうかを定期的に見直す機会を設けるため、指定管理者の指定は、期間を定めて行うものとされている。

ダンスを普及するためのネットワークの構築は欠かせません。

佐藤:舞踊事業を活性化することと劇場間ネットワークの発展は今では切り離せないと感じています。自分の属している劇場のことだけ、地元のことだけを考えていても将来は見えにくい。ネットワークで広がる活動は孤立を免れるし未来につながる劇場になるはずと考えています。舞踊の今後について考えるような機会も、企画を共有できる他地域の劇場と一緒に考えてゆくのが望ましいのではないかと思います。

これはもう育成や教育といった原点に返ってやらないといけないかなと。

佐藤:公立の専門劇場の主要な役割は、新しい作品を創造し普及してゆくことだと考えています。良い作品を上演すれば劇場に人々が集まって出逢いの場にもなります。それが劇場に活気を生み出しても行きます。劇場は作品を生み出して発信もするが、海外の作品のいいものは積極的に紹介もする。いいものを受け入れて公演することは発信することと同じぐらい重要だと思います。
神奈川県で国際フェスティバルを始めたときに新作に取り組みたかったのですが、現代ダンス(当時はモダンダンスと呼ばれていましたが)を踊るダンサーたちは個人の先生が運営する研究所に属していてフリーの活動ができない状態なことがわかりました。そうなると新作を作るためには育成や教育といった原点から取り組まないといけない。神奈川県で1996年から、ASK(Artists Studio of Kanagawa:かながわ舞台芸術工房)※3 という事業に取り組んだのはそういう事情も大きかった。3年間継続のワークショップに継続して参加できることを応募条件にして、120人ぐらいの応募者から20人選びスタートしました。講師はローザスの池田扶美代さん、当時のフランクフルト・バレエ団のエリザベット・コルベットさん、ヴッパタール舞踊団の青山真理子さんにお願いしました。毎年、ワーク・イン・プログレスのようなショーケースをやって、3年目に作品をつくったんです。その後プロの集団として活動するのが望ましかったのですが、現実にはそう簡単にはいかなかった。でもASKで出会ったダンサーたちが自主的に自分たちだけで小さな集団を作って作品を作り始めたり、海外に活動の場を求めてフランスやベルギーに行った人たちもいました。

※3:ASK(Artists Studio of Kanagawa:かながわ舞台芸術工房):神奈川芸術財団による1996年から3カ年実施された期間限定企画。ダンス、音楽、演劇表現の融合を探求するプロジェクトで、研究結果発表の場として2000年3月に横浜ランドマークタワーで公演が行われた。ダンスの講師にローザスの池田扶美代、ヴッパタール舞踊団などの振付家を招聘し、参加者にはダンスシアタールーデンス主宰の岩淵多喜子、ダムタイプの平井優子、ニブロール主宰の矢内原美邦等がいた。

社会に認知されるためには資格制度のような制度が必要で、公的な組織がそれを率先してやっていかないと、やっぱり続かないかもしれないなという危機感を感じるようになりました。

佐藤:その時はどうしたら日本でダンサーがダンスで自立して生きていけるかということを、深く考えざるを得ませんでしたね。ASKに3年間参加したダンサーから「ここでのワークショップは、大学レベルの授業内容をやっているんですよ。それも、世界のトップレベルの講師陣から。だからきちんと資格を出してください、出すべきです」と言われた。年間で合計すると1カ月、夏休みに2週間、春休みに2週間といったカリキュラムで午前11時から午後7時まで、発表が近くなるともっと遅くまでやっていたように思います。その時にダンスが社会に認知されるためにはやはり資格制度のようなのがあった方がいいし、それも公的な組織の役割かもしれないと考え始めました。

──日本に実演芸術の資格制度はバレエも、演劇もない。

佐藤:無いのは多分、日本だけかもしれません。2012年に中学で舞踊が体育科の中で必修になったけれど中学の先生が何を教えていいのか戸惑っているという話が聞こえていましたが、今では中学校のダンス授業では90%以上がヒップホップダンスに取り組んでいる状況です。ストリートダンスについては民間組織がインストラクター検定試験をして資格を出していますね。検定が通れば「私はダンスインストラクターの資格持ってます」と言えますし社会的にも認知されるのです。そういった制度は現状では創作ダンスであるコンテンポラリーダンスにはまだありません。この分野についても資格の整備をすれば学校側も受け入れやすいかもしれませんね。さいたま芸術劇場では2013年ごろからMeet the Danceと銘打って、現役の現代ダンスの振付家にお願いして県内の中学校に創作ダンスの授業をやっていただいてます。

──フランスでは、ダンス指導の専門教育を受けた場合は何か資格のようなものがあるんですか。

佐藤:私がいた80年代頃は、まだそれに相当する資格制度はなかったように思うのですが90年代、2000年代と時代が移るにつれて状況も変わってきた。現役ダンサーを引退した人たちからの要請もあってダンスをめぐる文化政策の中で考えられていったことだと思います。90年代半ばには整備されてきていたと記憶しています。フランスの現代舞踊のダンサーから時々「試験が通って資格が取れたから、もし何かワークショップなどの仕事があったら声かけてね」というようなメールや電話が来るようになりました。ダンスを広く社会に認知されるものにして行くためには制度を作っていくことも大事。ASKのタイミングで、この辺りはもっと考えなくてはならなかったんだなと今更ながら思います。でも当時は、まずは同時代に起きているダンスの認知度を高めるためにエネルギーを使わなくてはならないと感じていたのです。ところが指定管理者制度が導入されるのと同時ぐらいで国も地方自治体も文化事業予算を削減していったので活動を制限するものが、その後、立て続けにやってきて、とにかくダンスの事業を続けていくことに優先的にエネルギーを振り向けていた。もっと大局的な目でダンサーの生活保障的なことや、ダンスが認知されるように社会的な動きができなかったというのは反省点です。
ASKの3年目の1998年には、こういった問題を共有して一緒に考えたり意見を交換できる公立劇場がまだ日本には少なかったように思います。地方都市は地方都市の劇場で、その土地にゆかりあるアーティストの作品が望ましいという決まりごとのようなものがあった時代でしたから。

──日本の80年代に<コンテンポラリーダンス>が生まれるきっかけの一つになったと言われる「ヨコハマ・アート・ウェーブ’89」※4 とその5年後に始まった第1回神奈川国際芸術フェスティバル・コンテンポラリーアーツシリーズは当時ダンス、演劇のみならずアート系の学生や若者たちに大きな衝撃とともに迎えられました。

佐藤:「ヨコハマ・アート・ウェーブ’89」は横浜市政100周年、開港130周年記念を飾ったフェスティバルで、当時の日本のどこでもやっていないような横浜らしい街全体を使った舞台芸術フェスティバルに取り組みたいと市の文化事業部の担当者が考えていました。フェスの準備委員会を立ち上げてそこでの議論も踏まえてダンスや身体表現を中心としたフェスティバルでいこうということになったようです。そのころ私はパリに住んでいたのですが、横浜に住むという条件でディレクターとして企画立案をすることになりました。海外からはピナ・バウシュの代表作である『カーネーション』や初来日となったローザスのバルトークの弦楽四重奏で踊る作品やスペイン・カタルニアのフィジカルシアター、ラ・フーラ・デルス・バウス、日本からは白虎社や横浜ボートシアターといったプログラムを提案しました。大きな反響もあってその継続が望まれたのですが、フェスティバルはおそらく私の経験不足や力不足もあって2回目に続きませんでした。時はまさに全国的に新劇場の新設ブームでそれを運用するための文化財団が生まれていった頃です。神奈川でも事業団構想が立ち上がっていました(後の公益財団法人神奈川芸術文化財団)。私はその時には勅使川原三郎さんの『NOIJECT』の倉庫公演(1992年 於:横浜みなとみらい 21地区内倉庫)をスパイラルホールのパフォーミングアーツ部門プランニングアドバイザーとして手掛けていたのですが、その公演を見た神奈川県の文化部の方からの要請があって「神奈川国際芸術フェスティバル」にプロデューサーとして関わることになりました。
私にとっては第2回のヨコハマ・アート・ウェーブがこれで継続できるという気分でした。最初の年の1994年は勅使川原さんの『Bones in Pages(フランクフルト世界初演)』の日本初演、古橋悌二さんがご存命だった時に取り組んだダムタイプ『S/N』の日本初演、それからフィリップ・ドゥクフレ、ウィリアム・フォーサイス、ヤン・ファーブルなどの初来日作品でした。これまでになかったような方向性の企画に対する否定的な意見も財団の理事会で出ていたようでしたが、私のところまでは話が来ないように県から財団に出向していた幹部職員ががんばって止めてくれていたようなんですよね。でも時々言われてました。「あなたの提案をそのまま聞いていると、僕、来年、(神奈川と静岡両県境にある)足柄山に飛ばされるかも」って(笑)。足柄山って悪くないなと思ったんですけどね。その当時県から出向していた幹部職員が(足柄山の)金太郎さんみたいに踏ん張ってくれていたんです。アンケートでは、地元よりも東京や全国からのお客様が圧倒的に多かった。(行政は)数を見ますよね。理事会で「フェスティバルのダンスプログラムは先鋭的で海外のものが多い、県民のためになっていない」という意見が出ていたようなんですがその時に金太郎さん(さきほどの職員の方)がたくさんの新聞記事や集客の数字などの資料を集めて、私の知らないところで守ってくれていたようでした。「いや、批判する人もいますけど、実際にはこのように評価されて、これぐらいの(良い)記事が出て、このくらい集客しているんですよ」とその人が次の理事会で説明したところ、評価が一転したみたいでした。「そうか、それじゃあ、続けていこう」ということになった。たまたま、フェスティバルの第1回に第三者目線で判断しようという県の幹部が組織内にいてくれたので、このダンス部門が続いたのかもしれない。あの時、理事会の反対発言が通っていたら、わたしの仕事はそこで終わっていたかもしれないし、方向性を全く変えさせられたかもしれないですよね。

※4:ヨコハマ・アート・ウェーブ’89:1989年に横浜市の主催で行われたコンテンポラリー・ダンスのフェスティバル。ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団、ローザスなど国際的に活躍する海外アーティストを招聘。佐藤氏がアーティスティック・ディレクターを務めた。

──インパクトのある作品は、長い間、人々の記憶に残り、次代のアーティストにも影響を与えて、ダンスシーンの形成につながる効果があると思います。それが予算縮小により事業規模も縮小すると、その効果は薄まってしまって縮小の悪循環にも思えます。何が要因で予算が減らされていく状況になっているのでしょうか。

佐藤:そうですよね。文化庁が劇場の活動に割り当てている予算が、ここ10年ほど、いやもっと前から年々少なくなっています。さらに全体予算の中で全国的に見てダンス予算は縮んでいっていますよね。今芸術監督制度が日本に広く普及し始めていますが公立劇場の芸術監督の多くは演劇人です。全体予算が減ってくると相対的にダンス事業は添え物程度になってしまう劇場も出てきているように感じますが、そういう背景もあるかなと。なので、やはりダンス事業にも(演劇と兼任で、片手間仕事ではない)きちんとした責任者をつけて、対等に演劇と渡り合わなくてはいけないところもあると感じています。

さいたまの劇場に移ってから演劇を見ていてここはダンスもっと頑張らなきゃな!と思ったのは、演劇は新作に取り組んでプロダクションにかかるお金も多いけれどロングランをして収入も増やして収支バランスを安定させようとしていること。

佐藤:一方で、ここはダンスが頑張らなきゃな!と思ったのは、演劇の自主制作作品を見ていると、新作に取り組んでプロダクションにかかるお金も多いけれどロングランをして収入も増やして収支バランスが悪くないこと。育成事業は別に考えないといけないけれど、しっかりと収入もあるよというところをダンスが見せてゆかないと、対等には闘えないかなと。

──ダンスの観客を増やすにはどうすればいいか。

佐藤:音楽とダンスと演劇、この3つを並べたときに、一番ポピュラーなのは音楽で次は演劇です。ダンスは3ジャンルの中では一番マイノリティ。ただこの頃はよさこいダンスやストリートダンスが盛んになり、以前よりダンスを踊る子供達が増えています。だから、中学校の授業でダンスが必修化されたことを良いきっかけにして、いまはひたすらダンスを広めていければと思います。ダンスも音楽も言葉に拘束されない、論理からは自由な表現なので文化が違っていても共有しやすい。日本の昔々を振り返ると、盆踊りや神楽など、自ら踊るのは好きな民族だと思うんですよね。だから、芸術表現としての劇場でのダンスも作品によっては多くの人がアプローチできるようなものにしてゆくことも必要かなと感じています。
……ダンスの役割というのは多面的だと思うんですね。振付家が1,000人いたら1,000人分の世界観があるように、スタイルも内容も同じではないので、いろんなタイプのダンスを知っていただくような機会を作っていけたらいいですね。
……80年代末にパリから日本に戻って間もなかった頃、キュレーターの長谷川祐子さんが「美術手帖」に、ヨコハマ・アート・ウェーブのとても良い批評記事を書いてくれました。彼女とは直接面識が無いときでしたけど「わあ、こういう人が日本にいるんだ」とうれしかったのを覚えています。(そのような橋渡しによって)美術界の人がダンスを見に来てくれていたことが嬉しかった。ほかの表現のジャンルの人たちにも関心を持ってもらえるようになれば世界が広がりますよね。

──今まで見たことの無い人に、まずおもしろさを知ってもらうための仕組みづくりについて。問題はチケット料金の設定もあると思います。

佐藤:どれぐらいの料金設定が適切かは一概には言えませんが、ダンスの場合、プロダクションにかかった費用を入場料金で全て回収しようとしたら一枚あたりの価格がとても高価になって手が出にくくなります。そこに、補助金や助成金を当ててチケット価格をある程度抑えより買いやすくしているわけですよね。とはいえそれだけでは観客は増えません。大事なのは作品の中身。作品が自立するためには公演ツアーをしたりして入場料収入を増やしたり、スポンサーを見つけてかかった費用をある程度回収できるのが望ましいですよね。今の日本経済の状況ではスポンサーを獲得するのは簡単ではないのですが。

──ディレクションを手掛けられた「Dance Dance Dance@YOKOHAMA2012、2015」※5 は、最先端の舞台作品の紹介とともに市民団体などのダンスの活動も緩やかに集積されて展開されています。プログラミングの経緯や横浜市からの要請などや実際の反響、課題として感じていることなど教えてください。

佐藤:このフェスティバルは先ほど話したヨコハマ・アート・ウェーブとは規模もヴィジョンも違います。横浜市は観光都市なのでインバウンド効果も狙い市外からヨコハマに来る観客も意識した“横浜まで見に行きたい”と思えるような企画に加えて、市民参加型のあらゆるジャンルの皆で踊って楽しめるダンスプログラムもたくさん準備しました。市の観光局が主導するイヴェントです。市側の目論見としては海、港、街全体を舞台にあらゆる世代の市民や観客に楽しんでもらえるあらゆるジャンルのダンスを取り込んで展開する2カ月に渡る賑わいの創出です。
横浜港の大さん橋を背景に赤レンガ広場に造った特設野外舞台でのバレエ公演もあって一般観客の反響はとても良かったです。200ほどあるプログラムのうちメインの10企画ほどが主催企画で、その他のプログラムは団体がエントリーするという方法で、そのエントリーシートから選択するというやり方のプログラム選択形式。
……開催2回目では 200団体くらいの市民団体が参加したダンスパレードを加えました。50人規模の団体もあれば、5~6人規模の団体もあってよくて、究極には1人での参加もOKなイヴェントにしました。1人で参加する人はお立ち台を作ってそこで踊っていただいたり。出演者が合計5,000人。あらゆるところでパレードを見ることが出来るように元町、馬車道、伊勢佐木町とそれぞれのエリアでここはフラダンス通りとか、ここはよさこい通り、というように通りごとに緩やかなテーマをつくりました。
……「コンドルズと踊る!横浜大盆ダンス」に、よさこいの衣装でパレードに参加したグループも参加してくれてたり、外国人観光客が浴衣姿で参加してくれたり、そういう横の交わりかたも面白かった。予想しない出会いも自然に生まれて、参加型の野外でのダンスならではのエネルギーが生まれていました。どんなフェスでもそうだと思うのですが、課題はいっぱいありましたが、よかったこともいっぱいあったので今後に期待したいです。

※5:Dance Dance Dance@YOKOHAMA:横浜の「街」そのものを舞台にしたダンスフェスティバル。市民参加プログラム・次世代育成プログラムを中心に約200のプログラムを市内で開催。横浜アーツフェスティバル実行委員会が主催し、佐藤氏は2012年と2015年のディレクターを務める。(参照:https://dance-yokohama.jp/

──「Dance Dance Dance」は横浜市のダンス事業の成功例となっているように思います。

佐藤:2カ月続いたフェスティバルですが全体での動員数が100万人ぐらいと聞きました。それまでダンスを見たことがなかった人が、港が背景になった野外舞台でやるなら見に行こうとか特別な空気にはなっていました。バレエ公演にしてもいつもの劇場の観客とは違う人々が見にきていたように感じました。何をもって成功というかを考えると、そこに身を置いた自分としては、ダンスが好きな人が実はこんなにいたんだと。やっぱり日本人は、踊るのが好きなんだなということを目の当たりにしたフェスティバルでした。

──横浜でのダンスの受容のされ方が、とても幸せな例にも見えているのですが、実態はどうでしょうか。

佐藤:(横浜)開港の時代に思いをめぐらすと、いろんな国の大使館ができて多種多様な文化が一気に入ってきて、そういう人たちの社交ツールとしてはダンスが有効だったんだろうなとか、当時は社交ダンスのホールも横浜にいっぱい作られましたから。でも日本人はその頃は西洋の文化に憧れていたので盆踊りはやらなかったかもとか、横浜という街について自分の中であれこれ想像しました。初めてのフェスティバルでしたので、様々な課題はありましたが、たくさんの参加者や関係者の協力と情熱が原動力になって乗り切れたと感じています。プログラムが多かったので全部は見れませんでしたが、できるだけ現場を見ることにエネルギーを使いました。どのような種類のダンスも人がいっぱい集まっていて熱気にあふれていました。コミュニケーションツールとしてのダンスは身体表現として、言葉を介さないメディアの強みも感じさせられました。

──若手、中堅も含めてダンスのプロフェッショナルが創造する場を獲得するのが難しい状況です。発信する場所や、批評の機会もなかなか無い中で、どのような策をとっていけたらいいと思いますか。また、制作者やプロデューサーなどマネージメント面の人材育成についてはどうお考えでしょうか。

佐藤:そうした日本特有の現実をどう変えていけるかですよね。。いろんな考え方があると思いますが、稽古場や公演の場を振付家やダンサーに保障してゆく制度が必要です。若く才能あるダンサーが自分たちの将来像を描けないのは大きな問題だと感じています。でも日本ではこういったことは公共の問題とは意識されにくいので個々のダンサーや振付家が個人レベルで解決しているのが現状ですよね。
ところで今や世界のダンス界に広く認知され評価を受けている「舞踏」という日本発の現代ダンスは それが生まれた1960年代、今よりもダンス環境が整備されていない時代に生き続ける道を探っていました。大野一雄、山海塾、室伏鴻とアリアドーネ(そのほかもっと多くの舞踏グループ)は80年代、フランスでの公演をきっかけにして世界に舞踏の名を広めました。踊りたいという意欲的な振付家やダンサーの何がなんでも踊り続けるぞという決意が国内だけではなく世界を相手にして自分たちの状況を変えたのでした。踊ることはダンサーにとっては生きることと同義語ともいえますよね。
アートマネージメント教育がいくら盛んになっても優れたダンサーが出てこなければ活躍の場がないわけです。
制作者については前提として基本的なビジネス業務がわかっていることと、舞台芸術全般についての知識やこれを仕事とするという覚悟があれば、仕事は現場で覚えるものと考えています。制作を仕事として考えるとき、クリエーターの仕事を支える制度と切り離しては考えられません。わたしは新しいダンスが一気に芽吹いた80年代のフランスにたまたまいたのですが、その変化の力を目の当たりにし、結果その中で生きることにしたためその時代の文化政策の影響は大きく受けてしまっています。制作の仕事もそこで劇場の見習いみたいな形で覚えていきました。かの地では日本の舞踏が高く評価されていたので舞踏公演をやりながら多くの人にサポートされて少しずつ経験を身につけていった感じです。当時のフランスの文化政策をみると、まずクリエーターを養成する制度や国立の振付センターを全国各地に創設しています。それも20カ所以上に。そんな変化がクリエーターたちを刺激して新しいダンスの波のようなものを生み出すことになったわけです。その大きな変化は当時の私にとってはマジックを見ているようでしたね。

──アーティストの育成については、日本では最近は大学の舞踊専攻の卒業生も多くなってきていますが、教育制度とは別に、本当に芯の強いアーティストの育成を支えていくには、どのような仕組みがあったらいいでしょうか。

佐藤:先ほど話したようにフランスでは80年代にバニョレ国際振付コンクールで受賞した若手の振付家たちに活躍してもらおうと国立振付センター(Centres Chorégraphiques Nationaux 通称:CCN)を、つくった。それ以前は、パリ・オペラ座のように極めてエスタブリッシュなところにしか国の補助金は動いていなかったのです。その時代にはフランスでは新しいダンスの波はまだ起きていません。70年代末のポストモダンダンスや新しいアートの多くがニューヨークからの発信だったため、パリには“遅れをとっている”という危機感が生まれていたのです。「芸術の都のパリがこのまま指を加えているわけには…」という。そういう強い思いがあったので72年に元文化大臣(ミシェル・ギー)が始めた「パリ・フェスティバル・ドートンヌ」という芸術祭の中でアメリカポストモダンや日本の舞踏や前衛的な作品をたくさんプログラムしてパリも負けてられないよねという機運を作っていった。80年代に社会党が政権を取ったときに、フランスから発信するアーティストを生み出さねばという強い思いが政治的なレベルで熟してきていたのでそこに当時の国家予算の1%の予算をつけたという背景があるのかなと。国立振付センター(CCN)という名前を聞くと何か大きなセンターを想像してましたがダニエル・ラリューという振付家がフランスのトゥールという地方都市のCCNの「僕、芸術監督になったよ」というので彼の事務所を訪ねたんですが、小ぶりのオフィスに座ってて、「こんなもんだよ」というような感じでしたが嬉しそうでした。もう既にあった建物を再利用した建物みたいで広い稽古場が1つ、中くらいが1つあって、広い稽古場は、200人ぐらいの観客で見られるような席はつくれる。あとはそんなに広くない工房がついていて、常駐の技術者が1人、常駐のアドミニストレーション・スタッフ、それから公演をやるときは広報担当を外部契約するとか。ダンサーについては、プロジェクトベースで芸術監督が選び活動するという形になっていました。でも稽古場はいつでも自由に使えるし、習作を発表できるスタジオもあって、公演は近くの市立劇場が使える。制度の強みというものを実感させられました。

──ダンサーが自立できる制度について。

佐藤:フランスはアンテルミタンといって、舞台で働く人たち、ダンサーや技術者の仕事がないときに保障される失業保険がある。年間560時間ほど働けば(現在は変わっているかもしれません)、そのほかの期間は仕事がなくとも失業保険で保障されるという制度があるんですよ。当初はダンスや舞台芸術のためというより、映画やテレビ局のスタッフ向けにつくった制度のようでした。映画は一気にまとまった仕事の時間が必要で、終わったら次の仕事まで間が空くし、それが長く続くこともある。それに従事する人たちの生活を保障していかないと映画もつくれない。ハリウッドに負けてしまう。だから、フランス映画の振興のために失業保険制度の一部を変えてしまったわけですね。トゥールでダニエル・ラリューがディレクターになったばかりのころに聞いたことがありました。どこからお金を持ってくるとか、スタッフをどう集めるんだとか。センターのディレクターは3つ義務があって新作を最低年間1本つくること、それからその新作でできるだけツアーして多くの人に見てもらうこと。それは重要なCCNの収入源にもなります。あとは地域の子供たちを公演に招待するとか、学校に行ってワークショップをするとかの地域貢献プログラムを実施することですね。

──ダンスを普及するための仕組み・制度について。

佐藤:ここでツアーを組めるように国家がONDA(Office National de Diffusion Artistique)という舞台作品を普及するための組織も発足していました。国内の劇場のダンス担当者の名前、どんな内容の事業をやっていて、どんなプロデューサーや芸術監督がどんなプログラムをやっているか細やかに全部データを作っていて、それを提供してツアーオーガナイズのサポートをしてくれます。そのおかげで勅使川原三郎さんや室伏鴻さんのツアーが組めたのでした。ONDAは外国人の私にも分け隔てなくそういった情報を提供してくれました。国籍で区別されなかったのは嬉しかった。「日本人ダンサーの公演ツアーを組みたいんですけど、どこの劇場の、フェスティバルの誰に当たったらいいですか」という相談のアポを取るまでに1カ月以上かかりましたけど、行ってみたら半日みっちり相談に付き合ってもらえました。行ってみて、1カ月待たせられてもしようがないかなと感じました。その細やかさに脱帽です。劇場のディレクターの好みと、劇場の予算や条件なども把握している。外国人に対する寛容さにも感謝でした。言葉が少しぐらいブロークンでも大目に見てくれる。その大目に見てもらえるというのも嬉しかった。異文化に対して開けている国だなと。最初のころは、私はかなりブロークンなフランス語だったはずだけれど、それでもしっかりと話を聞いてくれた。あのONDAのオフィスでの面談がなければあの国で日本のダンスアーティストの公演ツアーを組むなんてできなかったと思う。この制度にはフランスやヨーロッパでツアーを組む上でとても助けられました。IETMが創設されたのも1980年代です。※6
日本の公立劇場が置かれた今の状況の中で私たちがダンスのよりクリエイティブな活動を目指していくとすれば、国内外を問わず複数の劇場間で協力してレジデンスも日程を分担して新しい企画に取り組んだり、劇場間ネットワークでツアーをオーガナイズするといったことがもっと活発になれば振付家やダンサーは活動しやすくなります。作ることと普及することは同時にやれるのが理想です。作品もツアーすることで鍛えられていきますし、収入にもつながり、観客も生み出し、育てる。こういった環境をあらためて整備していくことが、ダンスに関わる人々を励ましモチベーションを高めてゆくことにつながるのではと思います。

※6:1981年に「Informal European Theatre Meeting」として発足した舞台芸術関係者の会員制ネットワーク。現在は略称「IETM」を保持しつつ「International Network for Contemporary Performing Arts」と呼ばれている。https://www.ietm.org/

後記

それ以前のモダンダンスとは違う<コンテンポラリーダンス>の登場は、1986年の勅使川原三郎のバニョレ国際振付コンクール受賞に続くスパイラルホールでの公演、同年のピナ・バウシュの初来日公演『春の祭典』『カフェ・ミュラー』からで、これらを境に日本のダンサーの意識が変わったのではないかと乗越たかお氏が自身の著書に書いています。それらに続いて89年のヨコハマ・アート・ウエーブ‘89でのピナ・バウシュの『カーネーション』や、ローザス、ダニエル・ラリュー、ラ・フーラ・デルス・バウス等の公演がその変わった意識をさらに確かなものにしていったのではないかとも。インタビューの中でも話したように日本のバブル経済が後押しして日本各地に(1990年代〜1995年の5年間だけで400館以上)新しい公立劇場が建てられました。それらを理想的に運営する目的で劇場とほぼ同じ数だけの文化芸術関連の財団法人もできました。当時日本に戻って間もなかった私はそのあまりの急激な変化を驚きながら眺めていましたが、気がつけばその台風の目の中に入っていたわけです。25年たった今、それらの現状はどうなっているのかを検証してもみたいと思い当時のお話もしてみました。その当時時間をかけて議論されたことの何パーセントが今実現されているのか自問自答しつつ。
日本のみならず世界の経済、政治、社会、文化状況も今大きな変わり目にあると感じます。経済の数字上の繁栄とは裏腹に舞台芸術に対する国や地方自治体の補助金や助成金は減少しています。とはいえダンスを好きな人もダンサーも現実には増加しています。このような時代にダンサーとして生きてゆくにはどのような選択肢があるのか改めて考えてゆかなければならない別の時代に入っているのかなと思います。



撮影:宮川舞子

佐藤まいみ

1980年初めに渡仏しパリ市内のスタジオで多様なダンスを学びながら劇場に通う。パリ第7大学、日仏同時通訳科で仏語を学ぶ。その後、同大学文化活性科(アニマシオン・キュルチュレル)に在籍。一方、同地で舞踏や演劇の公演、パフォーマンス、ワークショップ、欧州公演ツアーの企画制作を手がけ始める。1987年一時帰国後は日本を拠点にダンス公演やダンス・フェスティバルのプロデュース、企画制作を数多く手掛ける。

1989年「ヨコハマ・アート・ウェーブ’89―国際舞台芸術フェスティバル」アーティスティック・ディレクター
1993年10月~2006年神奈川国際舞台芸術フェスティバル/コンテンポラリー・アーツ・シリーズ プロデューサー
2012年、2015年Dance Dance Dance@Yokohama2012及び2015 ディレクター
2005年~現在彩の国さいたま芸術劇場 ダンス部門 プロデューサー
(詳細は下記)

・受賞歴
2005年11月 フランス芸術文化勲章オフィシエ受章 

活動歴の詳細はこちら(PDF)

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