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コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

2024/02/01

コロナ禍で出会った「芸術」の場所。パンデミックとそれからの世界(前編)

歴史学者
藤原辰史

地球規模のパンデミックが次第に収束し、経済や文化が活発に動き出した一方、戦争や民族対立が再び顕在化しつつある現在。この困難な状況に、人はいかなる希望を見出すことができるだろうか?
農業史と環境史の歴史学者として活動する藤原辰史は、そんな時代に呼応する数々の書籍・言説を発表している。微生物や土壌の分解、壊れゆく事物の変化の過程をヒントに、生きることの意味や他者との共生の可能性を見出す哲学的な思考は、多くの読者に一筋の光を指し示すだろう。本記事は、京都大学を拠点に研究を続ける藤原に、パンデミック下での経験・思考、そして現在からの展望を聞くインタビューだ。
前編では、著書や活動に寄せられた人々からの反響、文章を書くことの原点、コロナ禍での表現との出会いなどを語ってくれた。

コロナ禍で得た、多くの反響

──コロナ禍の数年間は社会全体が閉塞感に包まれましたが、同時にそれまでの生き方や世界について考え直す機会でもあったと思います。そのタイミングで『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)や『縁食論 孤食と共食のあいだ』(ミシマ社)といった著書を通して藤原さんの思考に触れた人も多くいたと思います。

藤原:ありがとうございます。自分でも想像できなかった数の反応があって驚きました。よく言われるのは、本の内容に「エンカレッジされる(勇気づけられる)」「自分がいまやっていることが認められた」という感想です。先日、広島でこども食堂をやっていらっしゃる方にお会いした際にも、「自分が何をしているかを説明・理論化してくれるようだ」という感想をいただきました。たぶん、私のほうが、全国の先駆的な実践や思考に引きずられるように研究しているんだと思っています。
それから『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国)などは『分解の哲学』とともに建築関連の方からの反応が多いですね。おそらく建物を建てるときに、もうゼネコン的につくり続けている場合じゃない、壊したり、解体したり、つくり直さなきゃいけないという考えが共有されているからだと思います。
芸術方面からの反応も多くて、『分解の哲学』が韓国語訳された際にソウル国立大学の芸術家たちと対話したり、芸術家たちの会議の講演に呼ばれたりしたのですが、韓国でも芸術家たちが環境の問題にぶち当たって右往左往しながら考えているのがわかりました。これは音楽家もそうですね。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さん、それから先日亡くなられた坂本龍一さんなど、音楽(コンポジション)と分解(ディコンポジション)の関係性などからインスピレーションを得ているとおっしゃってくれる方が多くいます。信じられない幅の広い反応をいただいて、びっくりしています。

──藤原さんは研究者として学術的な論文も執筆されてきていますよね。それらと、広く読まれることを前提とすることの多いエッセイのような文章では、性質が異なるように思います。違いや差は意識されますか?

藤原:そこはすごく悩むところです。私は学会でちゃんと認めてもらえるような論文を書くことの訓練をしてきたし、本来はそれで十分だと思うんですね。だけど指導教員の池田浩士さんが「研究者も、徹底した調査にもとづくことが前提であるけれど、ちゃんと文章にこだわらなきゃいけない」という方だったんです。その影響もあって、論文を書くときから一般の方が読めるというか、学会とは縁がない人でも読んでほしいと思って書くようにしています。
しかしそれ以上に、歴史の専門家でない人でも読むことができて、かつ専門書でもあるっていう本は存在しうるとも思っているんですね。「ナチスとは何か」から説明する、「キッチンとは何か」から説明する。幼稚園児のようにイチから定義してみることを研究者があまりにも怠ってきたから、研究者界隈でのみぐるぐる回る論文が増えてしまったのではないか、という問題意識もあります。

──なるほど。

藤原:文章は読者に開いて書くけれど、あたりまえですが、絶対に(読者に)媚びないってことを自分に課しています。研究を希釈して、セカンドライン、サードラインとして出してるって本は絵本も含めて私には1冊もない。全部ファーストラインで書いたつもりです。その上で、「食べる」とはどういうことか、「植物」とはどういうことか、「作る」とはどういうことか、「キッチン」とは何なのかを一緒に学んでいきたいんです。

共に考えることの原点

──その考えに至ったのはやはり指導教官だった池田先生の影響が大きいでしょうか? それとも生まれ育ちによるものでしょうか? 藤原さんのお父さんは農業技術者をなさっていたと聞きます。人間の暮らしに関わる科学や技術が身近にあったことも影響していたのかなと思いました。

藤原:圧倒的に大きいのは前者、やはり師匠の存在です。池田さんは文学研究者であり、とくにファシズム文化という、ユニークなテーマの研究をしていました。あるとき、飲み会の席で彼から、文章をもっと鍛えるために冒険小説や怪奇小説などを読んだらいい、と言われました。私は小説を読まない高校生だったので、大学に入ってから大量に読まされたり読んだりするようになりました。文章を書いて面白さを伝える、作家たちの書き方に影響を受けたことは確かです。
ですが、生い立ちに関してはむしろ逆なんです。父親は島根の農業試験場で勤める理系の地方公務員だったし、本好きだったので家にも理系の本も人文系の本もけっこう置いてありましたが、読書感想文ぐらいでしか本を読まなかった。というか本を読むのが嫌いでした。外は晴れてるのに、なぜわざわざ家の暗いところで活字を追わなきゃいけないのかわからなかったんですよ。この前も、京都の丸善書店さんから「藤原さんが高校時代に読んできた本を10冊あげてください」という依頼が来て。

──よりにもよって人生でいちばん本を読んでいない時期なのに!

藤原:そうなんです。だから「中高時代に読んでおけばよかった本にしてください」と、お願いして、受け入れてもらいました(笑)。
それぐらい本当に本と縁がない10代だったのですが、しかしよく考えてみると、理系の父は小学校の自由研究にめちゃくちゃこだわる人でした。農業試験場に勤める家族が多く住む公団に住んでいたので、まわりの家庭も自由研究を頑張るものだから、父も当たり前のように理科系の作文技術を駆使して、私の書いたものを添削してくれたんです。それが、理系的な考え方で、シンプルに理路整然と人に伝える文章のトレーニングになっていたのかもしれません。目標を設定して、そこに至るための方法があって結果があって考察する技術ですね。
それともう一つ思い出したのが、小学6年のときの担任だった先生! しょっちゅう子どもたちに原稿用紙400字1枚で作文させるんです。さらに日直になると、毎朝黒板に作文を書かないといけないという決まりまであって。

──すごい!

藤原:そして、その作文に先生が赤を入れるところから毎日の授業が始まる(笑)。私は優等生タイプだったので、大人の目をうかがいながら言葉を選んでいるからとってもつまらない文章なんですよ。先生はそれをしっかり見抜いていました。文章で大事なのは「独断」と「偏見」という考えの人で、最初に何かと出会ったときに思ったことを忘れるな、その人が感じたものがないと文章はつまらないんだ、ってことを教わりました。独断や偏見とは差別意識という意味ではありません。自分にしか持てない偏った思考や言葉で感じたものをまず大事にしなさい、というメッセージでした。

──いい先生ですね。

藤原:大学を卒業したばかりの若い先生だったから、熱意があるぶん怖かったですけどね(笑)。でも面白かったですよ。日本語というのは、である、だ、ですます、で終わるので語尾が整いやすい。だから、できるだけ語尾に変化をつけなさい、過去完了や現在完了をもっと使いなさい、そうすれば語尾が変化して、読む側の臨場感もアップする、というような、小学生と思えない技術を教えてもらいました。

──著者の主観が大事に扱われている印象を、藤原さんのご著書から感じます。それが「共に考える、共に読んでいく」という感覚を読者に与えるのではないでしょうか?

藤原:おっしゃる通りです。むしろそれが場合によって研究者から批判されるポイントですが、歴史学に関して言えば、まず歴史を叙述する者が何を思っているのかを明らかにすることで、読者により深く伝えることができると考えています。「僕を見て!」っていうエゴを剥き出しになってはいけないけれど、著者がどんな問題意識を持って書いていて、読者をどこに導こうとしているかを最初に明らかにしておくのも大事です。
そして、むしろ立場を明らかにすることで中立的に書くことができる。『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』では、自分の仮説にとって不都合なデータが出てきたのですが、そのことをきちんと書いて、再検討した過程を書きました。消えゆく書き手として自分の個を読者から見えなくさせる書き方が主流であるし、私もそのような書き方をたくさんしてきましたが、たとえばフィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流』(白水社)のように「消えない書き手」という書き方を選んだ魅力的な歴史書が出てきていることもここで申し上げたいと思います。

保育の現場が教えてくれた、「場」としての芸術

──そういった開かれたスタンスも、藤原さんがこの不安定な時代に支持されている理由のように思います。それをふまえて、あらためてお聞きしたいのは、このコロナ禍についてです。パンデミック以前・以降で変わったこととはなんでしょうか? また、この数年で藤原さんはどんなことを発見し、また感じましたか?

藤原:コロナ禍で本当に衝撃的だったのは保育現場です。2018年に『給食の歴史』(岩波新書)という本を書いたのをきっかけに、小中学校だけじゃなく、保育園幼稚園の給食を担当されている方からの講演依頼などをよくいただくようになって、全国の現場に足を運ぶようになりました。
ご承知のとおり、保育士の皆さんにとって、コロナ禍っていうのは本当に何重にも苦しい時期だったんです。自分が感染をもたらすかもしれないけれど、子どもを預からなきゃいけないじゃないですか。かつ、給食をやっていらっしゃる方は当時の感覚からすればものすごく危険な立場で、本当に世の中の矛盾を一身に受けていて。この現場の前では、国会で論戦しているような内容なんて吹っ飛んでいくというか。仕事のハードさからすればあまりにも低い賃金にもかかわらず、それでものどを枯らすくらい大声を出して、とにかく子どもたちが楽しく過ごせるようにマスクをして必死になって動き回ってる保育士さんたちを見て、この国の圧倒的な冷酷さを感じました。
また、保育の仕事を、近い将来AIやロボットに代替できると主張する輩がいることにも激怒されていました。こういったケアの仕事をしている人が持っている大きなエネルギーは、私の文章の内容や書き方にも影響を及ぼしたと思います。

──藤原さんにとってコロナ禍での出会いが、大きな経験だったんですね。

藤原:はい。保育士の皆さんの絶望感に届く言葉を選ばないといけない、と思いました。さらにいうと、保育士のみなさんはとても勉強熱心なんです。低賃金で朝晩働いているのに、その夜に勉強会を開いたり、土曜日には全国規模の保育問題研究会を運営して、テーマごとに分科会まで設けている。私の基調講演も、居眠りしている人がまったくいないんですよ。疲れているはずなのに、ものすごい熱心に聞いて、その後には自分たちのスキルを磨くために歌や演劇の発表会もする。それも本当に楽しそうに表現するんです。外からは見えない保育の世界を知って、やっぱり「こういう風なことこそが美しい」と感じた気がします。美的なことは現場にこそある。コロナ禍は、信じられないくらいの人間のエネルギーが溢れた瞬間というものが何処にあるのかを教えてくれました。
例えば、東京藝術大学に入学するためには高校時代に美術予備校に通ったり、歌や楽器の先生に師事して一定以上の技術を得たりすることが必要となる。つまり、お金がかかる。もちろん奨学金制度のようなシステムもあるとは思いますが、やっぱり現場の実態や実感からは離れた、社会や歴史を学ばない「芸術」がまだ強いように思います。たしかに保育士さんたちの演奏や演劇は、プロフェッショナルな芸術家のものではないのですが、それでも私なんかは彼女ら彼らの表現に切実なものを感じます。
それまで私自身も、芸術っていうのは絵画や彫刻のような「物」が出来上がることなのだと勘違いしていました。けれども、例えば保育の現場で生まれる熱量や空気を感じていると、むしろそういった「場」をつくることも芸術の一つなんだと気付いたんです。第一に保育という場であり、保育士が学ぶ場であり、そして第二にそこには食があって、人が集まってくる場である。
これも一つのいわゆるアートのかたちとしてありうるのかもしれない……その考えが自分のなかに芽生え始めた頃に、まさにそれを実践しているアーティストと出会うことになります。それが小山田徹さんでした。

「たき火」に寄り集まることもアート

──小山田徹さんは、京都拠点に長年活動するダムタイプの創設メンバーとして知られる人ですね。また京都市立芸術大学教授として教鞭もとっていますが、家族がつくったお弁当の記録を作品化するなどユーモラスなプロジェクトを手掛けています。

藤原:小山田さんとお会いしたのはロームシアター京都での対談でした。それ以前に『縁食論』を読んで興味を持ってくださったそうで、私自身も彼の試みに自分と似た印象を抱いていました。
小山田さんは、いろんなところでたき火を行い、そこに人が集まる取り組みを続けています。「飛んで火にいる夏の虫」じゃないですが火の周りに人々が集まってくることを一つのアートとして考えつつ、同時に「たき火するのは単純に楽しい」ということも考えています。対談を行った同劇場でも、中庭のような空間でたき火の会(「OKAZAKI PARK STAGE 2022/ステージ インキュベーション キョウト ちっちゃい焚き火(薪ストーブ)を囲んで語らい、いろいろ焼いて食べる会」、2022年。翌年にも開催)を実行しています。
不思議なんですけど、たき火を囲んで焼き芋なんかを食べていると、まったく縁のない人もふらりと立ち寄ってきて、自然と「場」ができるんです。例えば京都大学に留学しているインドネシアの学生。「食の研究をしてます」「おー初めまして」みたいに会話が始まる。
社会が心理的にも物理的にも分断されて、見知らぬ人が寄ってこないようにするゲーテッドコミュニティみたいなものが暮らしの主流になっているなかで、たとえ怪しい人であってもわざわざ寄って来やすいように設計する。その空間設計がアートだなと思いました。
このことは学術にも通じると思うんです。学問も、人が何かしらの、「燃え盛る」知の熱に向かって集まって来る。みんなで火を囲んで言葉を交わして、アイディアが浮かぶ。その時のゾクッとする瞬間がアートの一つのあり方なのだと学びました。



OKAZAKI PARK STAGE 2022/ステージ インキュベーション キョウト
ちっちゃい焚き火(薪ストーブ)を囲んで語らい、いろいろ焼いて食べる会
撮影:中谷利明
提供:ロームシアター京都

中谷(撮影担当のカメラマン):じつはロームシアター京都の記録撮影で参加していたのですが、静岡方面からたまたま京都に来ていたバスケ部の高校生たちもたき火を囲んでいたのが印象的でした。

藤原:おお! やっぱり静岡のバスケ部の子だって、その場に座っちゃえば普通に語ることができますよね。若い人が何も主張がないとか言うけど全然そんなことはなくて。たき火を囲んでしゃべっていれば不満も出てくるしアイディアも出てくる。要は、おじさんたちが黙っていればいいんですよ。飲み会なんかだとおじさんたちが偉そうにしゃべっているから、若者が発言しないだけで。

中谷:たき火に参加していたおじさんたちは、しゃべるかわりにすごく手を動かしていましたね。

藤原:技術を見せればかっこつけられるからね(笑)。キャンプ場だとおじさん張り切るじゃないですか。あれが個々人に大事な役割を与えていて、おしゃべりは若者に任せちゃう。
「ここでやっているのは火を囲むだけのことなんだけど、アーティストはようやく社会や環境や歴史について真剣に学ばなきゃいけないことに気づき始めたんだよ」と小山田さんは言っていました。そして、その学びはおそらくコロナ禍も影響していて、アートは不要不急のものだと言われてしまったけれど、ある危機が起きたときにこそアートの重要性や面白さがあって、それを説明するための勉強が足りなかったんじゃないか、と。
一方で、私たち人文社会科学者もアートを知らなすぎたというか。表現というものが何なのかっていうことへの興味や学びの機会を持ってこなかった。だからこのコロナ禍で、アーティストとの出会いはすごく増えましたね。

(インタビュアー:島貫泰介/撮影:中谷利明)

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