ライブラリー

コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

2024/03/07

東京という「文化都市」の可能性
〜ロバート キャンベルさんに聞く

日本文学研究者、早稲田大学特命教授
ロバート キャンベル

コロナ禍が落ち着き、東京を訪れる訪日外国人の数が増えている。そこで、近世・近代を専門とする日本文学研究者で、古典芸能やアートなどにも造詣が深い早稲田大学特命教授のロバート キャンベルさんを迎え、世界のなかで東京が持つ「文化都市」としての特徴についてお話を伺った。

キャンベルさんは、東京に見られる文化の多様性や拡散性、そして異質なもの同士が混じり合い共存する「ゾーニングの緩さ」を指摘。こうした特性が、分断の進む世界で持つ可能性について触れた。さらに、コロナ禍や東京オリンピック・パラリンピックを経て、あるいは世界で起きるさまざまな災禍のなかで、いま「文化」に求められるものが大きく変わりつつあるとも話す。その語りは、東京の都市空間と文化の役割に新鮮な気づきを与えてくれる。


キャンベルさんの背景に掛かっている作品のタイトルは「TORA」。作者は、梁亜旋(りょうあせん)さん。
梁亜旋さんは国文学研究資料館のプロジェクト「ないじぇる芸術共創ラボ」に参加されていたアーティストです。

東京の可能性はその多様性と拡散性、ゾーニングの緩さ

—— キャンベルさんはニューヨークのブロンクス出身で、1985年に九州大学文学部研究生として来日。1995年には東京に移られ、戸越や駒場、立川などの職場で働きながら、東京の都市空間と文学の関係も研究されてきました。そんなキャンベルさんから見て、世界における東京の文化都市としての特徴はどのような点にあると感じられますか?

キャンベル:一言で語ることが難しいですが、ひとつ言えるとすれば、共時的・通時的に幅広い文化に触れられること、そしてそれらが都内のあちこちに拡散的に存在し、誰にとってもわりとアクセスしやすい点でしょうか。

共時的というのは同時代のことで、食文化がわかりやすいですが、東京では先進国のどんな都市をも凌いで、さまざまな地域の本格的な料理が食べられます。他方、通時的とは歴史的な線のことで、東京には先端的な技術やカルチャーがあるのと同時に、少し擦(こす)れば過去につながる歴史の厚みがある。この文化的な横軸と縦軸の幅広さは特徴的だと思います。

さらに東京には、強力な求心力を持つ中心点がない。ロラン・バルトという批評家がそのむかし『表徴の帝国』(1970)という日本文化論で「東京には皇居という中心があるが、その中心は空虚だ」といったことを書きましたが、実際、東京にはしばらく滞在すると見えてくる細かな地域的な差異があり、そのそれぞれの街が比較的独立して存在しているという感じがあります。下町にも多摩地区にも、各々に強固な地元感がありますね。

これは、僕の故郷のニューヨークと比べるとわかりやすいです。ニューヨークにおいてやはりマンハッタンの求心力は大変なもので、ブルックリンでもクイーンズでも何かの仕事や用事があればマンハッタンを通らざるを得ない。また精神的にも、太陽系の太陽のようなものとしてその場が意識されている部分があります。それに対して、吉祥寺や浅草の住民はその街のなかで生活を完結できる。そうした中心のない拡散性があると思います。

そして、文化へのアクセスのよさも感じます。先に述べておきますが、もちろんこれは十分ではありません。障がい者の方たちを考慮した街づくりや制度は不十分ですし、大都市なのに交通機関が深夜0時台に止まってしまうという意味で、いわゆるナイトタイムエコノミー的な点が弱い。ただ、街としての安全性を含め、僕のような海外から訪れた人でも比較的容易に、かつ隅々の地域で、文化にストレスなくアクセスできると言えます。

—— 東京では、不可視のハードルはまだまだ多いものの、雑多な文化が混じり合いながら存在し、それぞれにアプローチする入口が世界の都市と比べると広い、と。

キャンベル:それは言い換えると、良い意味で「ゾーニングが緩い」ということです。歴史的には、東京には江戸から明治中期くらいまでは職業と住む場所の一致がありました。藍染職人の多く住んでいた紺屋町などがそうですね。しかしそれが1923年の関東大震災や1945年の敗戦、その後の占領期などを経て、日本の産業や教育制度が大きく変わることで弱くなっていった。

そして僕は、このゾーニングの緩さゆえに異なる文化にふと出会ってしまう、異なる領域間の壁をふと超えてしまうこうした東京の性質は、いまの世界のなかでそれ自体としてひとつの価値があるのではないかと思います。それは、そこには一種の寛容さがあるから。寛容の「寛」という字は「緩い」という意味ですが、戦後の東京が作ってきた都市空間というのは、異なるものを緩く受け入れる場でもあったのだと思います。

「一筆書きの風景」や、エリアで街を楽しむ

—— キャンベルさんが東京で好きな場所や風景はどこですか?

キャンベル:僕はやっぱり、専門である江戸後期から明治初期の当時の資料、例えば切絵図などを使いながら散歩して見る風景が好きですね。なかでも好きなのが、自分の言葉では「一筆書きの風景」と呼んでいるような、異なる位相にある要素がひと続きになった風景です。

一例として目黒を挙げましょう。目黒駅の近くに権之助坂という目黒川まで降りていく坂があります。そこを横道に入ると雅叙園(ホテル雅叙園東京)に向かう行人坂につながりますが、その右手には芸能事務所ホリプロの本社があり、いま売り出し中のタレントの写真などが貼られています。その向かいにある大圓寺(大円寺)は江戸の三大大火のひとつ「目黒行人坂の大火」の火元とされていて、その犠牲者を供養する羅漢像が並んでいます。さらに行人坂を降りた一帯は歌川広重が「名所江戸百景」に描いた場所であり、雅叙園には「百段階段」など昭和初期からの職人たちの技巧が詰まった空間が広がっている。こんな風にひとつの地形のなかに、江戸から続く社会のさまざまな記憶が刻まれているのを感じるのが楽しいんですね。

—— 文化施設だとどんなところに行かれますか?

キャンベル:やはり文学関係の場所は好きです。いまいる早稲田大学のすぐ近くにある新宿区立漱石山房記念館や、文京区立森鴎外記念館台東区立一葉記念館などですね。あと駒場の日本近代文学館には「BUNDAN」というカフェがあって、さまざまな文学者の作品に因んだ料理が食べられます。文学館で展示も見られるし、楽しい場所ですね。

美術館もよく行きます。好きなのは森美術館。世界から注目されている美術館です。ただ森美術館だけでなく、その下の階には森アーツセンターギャラリーがあり、同じ森ビルが運営する虎ノ門ヒルズではいま写真家の蜷川実花さんの展示(2月25日まで)が、麻布台ヒルズではアーティストのオラファー・エリアソンの展示(3月31日まで)が開催されている。東京はその意味で、多様な特徴の文化施設や食事、買い物ができる場所が縫い目なく配置されているのも面白いです。

世田谷にある静嘉堂文庫の新しい美術館「静嘉堂@丸の内」が最近丸の内にできたのですが、その近くにも三菱一号館美術館(2024年秋頃まで臨時休館中)や東京ステーションギャラリー、TOPPANが運営する「NIPPON GALLERY TABIDO MARUNOUCHI」といった施設がありますね。僕はそんな風に、ひとつの施設というより「エリア」で楽しむのが好きですね。

—— 東京で美術館や文化施設が集積した場所としては、いまおっしゃった六本木周辺と東京駅周辺のほかに、上野もありますね。

キャンベル:上野も美術館だけでなく、古典芸能も含めて見られるところが良いですよね。そうした緩やかな寄り合い所帯的なエリアは面白い。僕がこの数年研究している銀座もそう。銀座はこの20年でだいぶ外資が入っていますが、それらが社会連携事業を競うように行なっている点は特徴的だと思います。例えばアートギャラリーがあったり、女性の活躍を顕彰するアワードをやったり。「UNIQLO GINZA」も建物全体をミュージアム的にしていますし、「無印良品 銀座」にはギャラリーやホテルもありますね。それぞれのお店が銀座という街のなかで商売と文化を融合させているのを感じるのが好きです。

銀座ではもうひとつ、「ハイアット セントリック 銀座 東京」もお気に入りです。ここは明治期に朝日新聞社の本社だったところで、石川啄木や夏目漱石、二葉亭四迷らも働いた場所でした。そこをホテルにしたのですが、建物のあちこちでかつての活版技術をオマージュした現代アートが見られます。明治から連綿と続く、銀座で生まれた文化のスピリットを受け継いでいるんですね。東京というと以前はスクラップ&ビルド的な開発で知られていましたが、最近は土地の文脈を踏まえた施設が増えているのかなと感じます。

コンテンツではなく、人が生きていくための文化を

—— キャンベルさんがこの数年でとくに印象的だった文化体験は何ですか?

キャンベル:たくさんありますが、ひとつは2018年から茶道の月刊誌『淡交』(淡交社)の連載で、各地の美術館に収蔵されている茶の湯の名品に、直に触れさせていただいたことがあります。

—— 『よむうつわ 茶の湯の名品から手ほどく日本の文化』(上巻下巻、淡交社、2022)として書籍化もされていますね。ちょうど今日、これらの本を持ってきていますが、訪れている施設は東京にあるものも多いです。そして、登場するのは驚くほど貴重な品ばかりですね。

キャンベル:国宝や重要文化財が多いのですが、展示室とは異なる緊密な空間のなかで、そうした品に時間をかけて、しかも素手で触れることができました。そこで感じたのは、そのもののなかに流れる、知識や情報には収まらない歴史性です。

茶の湯の道具には朝鮮半島や中国の日用雑器から始まっているものも多いですね。そうしたものに千利休や小堀遠州のような人が価値を与えて、その価値が代々、伝来のなかで姿を変えつつも堆積されていく。また、器はそれだけで存在するのではなく、先ほどの空間もそうですし、箱の意匠や蓋に書かれた文字などと一体となって価値を作っている。

つまり、ものと生活、その周りにある時間は不可分ですが、そうした周辺の要素は美術館に器が置かれたときには見えづらくなってしまう。それを緊密な空間で、丁寧に時間をかけて触れることで感じることができたんですね。その価値を守り続けてきた、いや、守るだけではなくて、それぞれの時代や社会の情勢のなかで何かを生み出そうと希求するエネルギーのようなものを感じたし、それが周辺的な証言を通しても見えてきたんです。

少し東京や日本から離れますが、じつはいま言ったような文化の姿が、僕が近年とても興味を抱いているものなんです。最近ウクライナの避難者の言葉に取材したオスタップ・スリヴィンスキーさんの『戦争語彙集』(岩波書店、2023)を翻訳して、僕も現地を訪れました。この避難者たちの証言は、歴史的に見ても苛酷な出来事を体験した人々がギリギリの状況で寄せた言葉です。それに触れると、言葉がときにシェルターや人を守る役割を果たすことがあることがわかる。これは僕にとって原点回帰というか、言葉を交わして残していく営みが、たまたま私たちがいま「文学」と呼ぶものとして蓄積されているんだと感じた経験でした。

2021年に『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)という本を出しましたが、社会が災害や戦争などで不安になったとき、人々がどのように言葉を残すのか、その原動力はどのような意味を持つのか。私たちがいま言う「文学」は、日本ではせいぜい150年くらいの歴史しかないわけですが、実際にはもっと幅広い、いろんなものが文学だったわけです。

—— いま文化というと、いわゆる「コンテンツ」的なものが想像されるけど、じつはそうした消費の対象とは異なる、人が生き抜くための言葉や文化があるということですね。

キャンベル:そうです。さらに言うと、最近、朝日新聞で「天才観測」という天才についての面白い連載がやっていましたよね。いま「天才」の性質が変わりつつあるのだ、と。つまり、以前は天才と言えば孤高の存在でしたが、それはじつは18世紀の産業革命やロマン主義の頃にできた考え方であって、最近ではそうした際立った主体は受け入れられない。こうした価値観の変化も、先ほど僕が言った「文学」の枠組みの問い直しと関わると思います。

『戦争語彙集』で僕が共感したのは、その一種のフラットさなんです。証言に重要度の高低や中心がなくて、ただアルファベット順で並んでいる。それらの言葉は共同的なものだということが佇まいに感じられる。これはじつは『よむうつわ』で扱った名品と呼ばれる器もそうです。それらはいま重要な文化財だとされますが、それは1950年の文化財保護法の施行後の話で、基本的にお茶の道具というのは、どのような組み合わせをするかで価値が作られる部分がある。じつはフラットで、その意味では中心はないんです。

オリパラとコロナ禍が見せたものを見極める時期

キャンベル:少し強引かもしれないですが、僕が興味を抱くこうした文化のあり方は、東京の街の構造にも共通するのではないかと思うんですね。東京には、非常に強固な秩序や価値のヒエラルキーのようなものが希薄であるということ。ニューヨークのマディソンスクエアガーデンやロックフェラーセンターのようなゼロ地点の場所から、資本や文化が放射状に広がるような構造ではなく、それぞれ異なる街が点々と存在している。

ちょっと大きな話をすると、こうした緩やかな構造は、分断が進んで民主主義が問われている現在の状況に対するレジリエンス(困難な状況でのしなやかさ)という観点で、非常に柔軟性があるのではないかと思うんです。袖の振れ合いではないけれど、東京にはふとした瞬間に他者と出会い、関わり合うということが起きやすい都市構造があると感じます。

—— 東京のゾーンニングの緩さ、ある種のいい加減さがそうした出会いを生むと。

キャンベル:そうした性質は、いまこそ見直すべきなのではないか。ちょうど昨日、用事があって新宿区の砂土原町に行ったんです。あの砂土原町や近くの若宮町というのは、渋谷区松濤などに匹敵する超高級住宅街の最たるところですね。高台で、商店などは江戸時代の頃からまるでない地域です。でも、そこから坂道を下りると数分で庶民的で歴史的な神楽坂通りに出る。このふたつは眩暈がするくらい空気が違いますが、分断されているわけではなくて、有機的にある意味依存しあって共存している。こういう街並みは東京の素晴らしさだと思います。

例えばニューヨークだと、郵便番号でそこの住民の平均所得とか教育や医療の環境、健康寿命などが決然と分かれてしまっている現実がある。もちろん、東京にもそうした住む場所での格差は間違いなくあるし、決してここがユートピアなんて言うつもりはないです。しかし、立場や所得などによって分かれてしまっているもの同士をつなぐ扉がたくさんあるということを非常に感じるんですね。

このような性質は、皮肉なことに、日本では比較的貧困が見えづらいことの要因にもなっています。最近、フードバンクのことを調べる機会があったのですが、食べ物が不足している家庭がどこにあるのか、どの地域にあるのか、なかなかわからないために、区役所や市役所のような場所にチラシを置くしかない現実があります。一方で、本当にふとした街角や街中のマンションの一室などに子ども食堂が扉を開けていたりもする。僕の家の近所にも4つほどあります。

このように、さまざまなものが混ざり合いながら存在することは必ずしも良い結果ばかりを生むわけではありませんが、全体としては育んでいくべき点ではないかと思います。

—— アーツカウンシル東京のような文化事業者も、すでに文化芸術と認知されたものに限らず、そうした東京の街の性質や日常のなかの文化に着目していく必要があると。

キャンベル:そう思います。ただ、アーツカウンシル東京は、これまでもそうした異なる文化や他者への扉を比較的積極的に作ってきたと感じています。とくにオリパラをひとつのきっかけとしてアーツカウンシル東京が展開してきた障がいを持つ方たちの文化への着目や、さまざまな特性を持った人たちを創造の現場と接続するための工夫、そこから生まれた作品や喜びの実績は計り知れないものがあると思うんですね。文化施設のなかで行われるすでに価値化された文化だけでなく、そうしたまだまだ認知が足りないものも含めて、横に広げて目を向けていく、育んでいくということがすごく重要なんじゃないかと思いますね。


2019年2月に開催された第7回TURNミーティングの様子。
キャンベルさんにご登壇いただきました。
[詳細]

—— たしかに、オリパラという巨大な祭りが終わり、コロナ禍を経たいまは、そうした従来は見過ごされていた、まだ小さい文化の芽を見る目の強さが求められるのかもしれません。

キャンベル:とくに若い世代の人たちは、そのような価値観をかなり当たり前のものとして備えているのではないでしょうか。大企業で評価されて成功するという人生観より、仕事以外の時間の使い方に関心が集まるのも、そうした傾向とつながっていると思う。オリパラにはいろんな功罪がありますが、公共事業にレガシー—— 僕は嫌いな言葉だけど、レガシーがあるとするならば、学んだ課題や上手くいかなかったことも含めて、その経験から何を残して残さないのか、限られた予算や人員をどこに付けるのか、その選択はどのような価値観に基づくのか、そうしたことを考えるきっかけになることだと思います。

インバウンド対策の前に、都市や文化への深い理解が必要

—— 今日は東京における文化の楽しみ方を聞こうとお邪魔しましたが、お話を聞くにつれて、「文化」というものの捉えられ方自体に変質があるのだと感じました。

キャンベル:そうですね。いまは、人がアートや文化に求めるものの分岐点だという気がします。ただそれも一枚岩ではなくて、アートは教養であり、襟を正して見にいくものだと感じている人もまだまだたくさんいるし、そうした楽しみ方ももちろん悪いものではないわけです。

—— そうしたハレの場としての側面も、当然ありますからね。

キャンベル:そう。でも、そうした場にもコロナで見えたものがあると思うんですね。例えば、コロナ禍の真っ只中の頃、コンサートができずに困ったクラシック音楽の演奏者やスタッフが普段の事務所の垣根を初めて超えて「クラシック・キャラバン」という組織を作ったんです。僕はクラシックが好きで、アンバサダーをしていたのですが、その活動を見ながら、生の舞台というのがいかに空気の振動や、他のお客さんの咳払いや雰囲気、音合わせ前の静けさなどを含む共有体験であるかということを非常に感じたんですね。またそれは、分散退場や客席の配置、医療従事者の立ち合いなど、さまざまな工夫を学ぶ機会でもあった。

さらにその活動では、まだ音大を出たばかりのような若い音楽家たちと、一流の交響楽団の奏者との共演も起きていました。こうした豊かな混線状態、何が出てくるかわからない「建設的なガラガラポン」がコロナ禍の怪我の功名だと思う。似たような経験は、古典芸能でも現代アートでもそれぞれのセクターにあったはず。その経験から何を学んで、次の文化につないでいくのか。それがいま問われていることなのかなと思います。


クラシック・キャラバン2021
©︎堀田力丸/一般社団法人日本クラシック音楽事業協会

もうひとつ、ここで話したいのは、インバウンドが復活してきたというとき、インバウンド対策として外に向け何かをし過ぎなくていい、ということです。これは星野リゾートの星野佳路さんも話されていたのですが、観光という面では日本のお客さんが一番サービスに厳しいわけですね。日本人が満足する宿泊施設や観光ルートというのは、おのずと海外の旅行者も追随するものになる。もちろん基盤的なレベルとして、海外の人でもその体験の本質的な意味がわかるようにする解説の整備などは必要だと思います。でも、ただひたすら海外の人の受けだけを狙ったアピールはダメだと思うんですね。

そうではなく、まず日本の観光客に、なぜお金と時間を使ってまでその体験をする意味があるのかということを深く理解して、味わってもらうことが大事。そうした本質的な体験の情報があれば、日本の安全な交通網もあるので、いまは海外の観光客で本当にそのものに関心を抱いた人は、自分で情報を見つけていろんな場所に行けると思うんです。

—— 環境の整備は必要だけど、上辺でアピールしても仕方ないと。

キャンベル:これは文化芸術も同じで、まず日本人がその文化の持つ意味を理解している必要があるのではないか。古典芸能にしても、ただ「立派なもの」として扱ってインバウンド向けに来てほしいというのではなく、その文化が本来持つアクチュアルな側面を知ること。そしてむしろオーバーツーリズムにならないように気をつけながら、人生のなかで本当にその文化を必要とする人に届けるよう、磨き上げていくことが大事ではないかなと思います。

—— 既存のフレームや価値観に頼らずに、自分たちの周りにあるものを、自分たちの生活者としての視点から丁寧に見ていくことが大切だなと、あらためて感じます。

キャンベル:そうですね。そうした視点が、文化や、あるいは都市にも有効だと思います。途中でも触れたように、東京の持つ文化の多様性や拡散性、そして異質なものがふと出会ってしまう扉の多さという特質は、言語や宗教、政治的な信条で人々が分断し、同じ現象に対しても真実かどうかが同定できなくなっている世界のなかで、それを緩和する、調和するという点で非常に可能性があると感じるんですね。そうした視点で身近な資源を見渡し、これからの文化を考えていく、あるいは都市に実装していくことが必要かなと考えています。

聞き手・構成:杉原環樹
撮影:田中雄一郎