東京アートポイント計画通信
東京アートポイント計画は、地域社会を担うNPOとアートプロジェクトを共催することで、無数の「アートポイント」を生み出そうという取り組み。現場レポートやコラムをお届けします。
2013/07/10
佐藤POレポート2 むすんで、ひらく
アートプロジェクトの現場は、ある一定の「期間」を対象とするのではなく、終わりのない「日常」を相手とした時間軸で動いているのではないか。前回の投稿ではアートプロジェクトが向き合う時間について考えました。それから1ヶ月が過ぎ、東京アートポイント計画の6月のプログラムを通して、次の2つの問いについて考える機会がありました。「日常」という時間を相手にするアートプロジェクトという現場で何が起こっているのか―何に価値を置こうとしているのか(※1)—ということです。
6月6日。Tokyo Art Research Lab「アートプロジェクトの『言葉』を編む」の公開研究会を開催しました。アートプロジェクトにまつわる言葉を集め、読み解き、編纂することを目的とした本プログラム。公開研究会では、毎回題材とするテキストを決め、執筆者をお招きし、参加者と共にテキストを読み解いていきます。そのシリーズ第1回目として、ゲストに水戸芸術館学芸員の竹久侑さんをお迎えし、ご自身もディレクターを務められた「水と土の芸術祭2012」のカタログに寄稿された文章「土が耕され、種まきが終わり、さて花は咲くか – 芸術祭の公共性を求めて」(※2)を題材に議論を行いました。
当日はテキストを参加者のみなさんと1段落ずつ声を出して、読み進め、その背景にあった竹久さんの「水と土の芸術祭2012」での経験や考え方を伺いました。ここでは冒頭に掲げた2つの問いに関連した、2つのポイントを振り返ってみたいと思います。
ひとつは、美術作品が「もの」だけではなく、出来事や状況をつくる「こと」に変化するなかで、「美術」を前提としない市民という「ひと」を対象とする意識が前景化してきたこと。そして、その制作過程において、作家や作家以外の多様な「ひと」が「双方向のコミュニケーション」を前提とした「水平軸に広がるフラットな関係性」を築きながら「ともに創造する」という現場が生まれているということです。
もうひとつは、このような「市民参加」や「市民恊働」という考え方は、1990年代から2000年代にかけて「アートプロジェクトの現場において定式化した」方法であるが、2010年代に、より顕在化してきた作家が「市民が主体的に関わる場を自身の作品のなかにしつらえる」ことを「市民主体」という言葉で考えられるのではないかということ。それは美術館やマーケットという制度に対する「オルタナティブな(もうひとつの)美術」の実践であり、地域社会における大文字の公共ではない「もうひとつの公共」を切り開く可能性をもっているということです。
この「共につくる」という状況と、それによって生まれる「もうひとつ」の場や関係性を追求することこそが、アートプロジェクトの現場に起こっていることであり、そこに関わる人々が価値に感じていることなのではないだろうか。今回の議論を日々の現場に照らし合わせながら、竹久さんのテキストやお話から思ったことです。
アートプロジェクトは、共にすること(あること)を大事にしながら、公の場で(方法で)行うことによって、その意義を広く開いていく(共有していく)試み(※3)なのではないだろうか。そこで悩ましいことは「共」を大事にしながらも、閉じずに開いていくこと…。この話、広げられそうですが、締切も、字数も、そろそろ限界です。次回へ続けようと思います。
(※1)この問いへは、Tokyo Art Research Lab「評価」のためのリサーチの設計と実践(2012)でも取り組んできました。議論のドキュメントはTARLウェブサイトよりお読みいただけます。< http://www.tarl.jp/cat_output/cat_output_record/5066.html >
(※2) 『開港都市にいがた 水と土の芸術祭2012 作品記録集』水と土の芸術祭実行委員会、2013年、30-31頁。
(※3) 竹久さんが研究会で紹介していた齋藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)では、公共性(public)には、official、common、openの3つの意味合いがあると説明しています。