Art Support Tohoku-Tokyo
Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)は、東京都がアーツカウンシル東京と共催し、岩手県、宮城県、福島県のアートNPO等の団体やコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援しています。現場レポートやコラム、イベント情報など本事業の取り組みをお届けします。
2017/09/11
生態系を歩く― Art Support Tohoku-Tokyo 7年目の風景(3)
シリーズ「7年目の風景」はArt Support Tohoku-Tokyoを担当するプログラムオフィサーのコラム、レポートや寄稿を毎月11日に更新します。今日で東日本大震災から6年6ヶ月です。前回に続いて執筆は佐藤李青(アーツカウンシル東京 Art Support Tohoku-Tokyo担当)。事業の詳細はウェブサイトをご覧ください。http://asttr.jp/
Art Support Tohoku-Tokyoの定型文には「現地のNPO等のコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援する」という一文がある。この意味を考えるとき、いつも震災後1ヶ月足らずに書かれた、あるブログ記事を思い出す。タイトルは「いつか東北が日本のアートシーンをリードする」、執筆者は肩書きに「文化生態観察」を掲げる大澤寅雄さん。そこには次のように書かれていた。
思い起こしてみれば、阪神淡路大震災以降、京阪神のアートNPOが日本のアートシーンのある側面をリードしてきたんじゃないかと。
(中略)
東北でも、否応なしにアートを取り巻く環境が激変し、これまでの生態系も壊れてしまったかもしれない。ですが、丁寧に、自らの力で生態系を紡いでいけば、長い目で見て豊かな土壌を培う可能性がある、ということです。
あと15年くらいしたら、東北のアーティストやアートNPOが日本のアートシーンをリードするようになってほしいなぁ。東京や大阪なんて鼻にもかけないくらいに。私は、きっとそうなると思います。
(「いつか東北が日本のアートシーンをリードする」TORAO.doc、2011年4月5日)
この期待に満ちた予言のような言葉は、震災後の実践の先に立ち戻るためのよすがとなった。「地域の多様な文化環境の復興」の支援とは、すなわち「丁寧に、自らの力で」東北の文化の生態系を紡ぐために必要な実践を、東京という距離を活かして行うことだった。
震災から5年が経った頃、その「生態系」の萌芽を感じるようになった(※1)。そこには記録と記憶、経験の継承や表現の意義、日本の「近代」の経験や土地の歴史への関心など共通の問題意識があった。強く「アート」と言い切れるものなのか。それぞれの実践は、そうした問いを誘うような間(あわい)の地点にあった。あえて、そう名指すことを求めておらず(そう確信があったとしても)、必要もないのかもしれない。だが、その「現れ」の強弱もないまぜに「系」として見えてくることこそが、アートの新たな「シーン」の兆しなのではないだろうか、とも思う。それが何なのか、いまだ掴みきれてはいない。
2ヶ月程前のことだ。大澤さんと打合せでお会いしたときに、こうした漠然とした現状認識を早口で共有した。阪神淡路大震災の経験をした人々の実践のリレーが功を奏しているように思える、とも付け加えて。東北の生態系が生まれるのは15年よりも早いかもしれない、と。それから急ぎ足で意見を交わした後に、大澤さんは自らの関心として(東北に限らず)「どうすれば生態系を描けるのだろうか」と語っていた。それは新たな問いとなった。
2017年8月20日。仙台市地下鉄東西線の荒井駅に降り立った。東西線は2015年12月に開業した新しい路線だ。荒井駅は東西線の東の終着駅、仙台市で最も太平洋沿岸に近い。つまり最も津波の被害の大きかった地域の入口のような場所にある。構内には「せんだい3.11メモリアル交流館」(以下、メモリアル交流館)も併設されている(※2)。メモリアル交流館は、すでに何度も訪れていたが、今回の目的は、この4月に公開を開始した震災遺構の仙台市立荒浜小学校だった。
「どちらからいらしたんですか?」
最初はメモリアル交流館で荒浜小学校のチラシを手にとったとき、次はタクシーで行き先を告げたとき、別の人から同じ問いかけを受けた。「東京からです」と答えると、まず「(荒浜小学校の)近くに慰霊碑の観音様があって、頭が津波の高さなんですよ、お時間ありますか? ぜひ一緒に行ってみてください」と薦められた。タクシーでは「南海トラフの地震って、東京にも津波は来るんですかね?」、「わたしは宮城県沖地震(1978年)も経験したけど、今回の地震はなぁ…」と運転手さんの経験や周りの風景の解説が矢継ぎ早に続いた。
被災経験は、その場所に近ければ近いほど語りづらい。「当事者」が多いからだ。たとえ会話を交わしたとしても(本当の)被災経験は分からない。津波に浸水したか、親族を亡くしたか、被災は比較や程度では測れない。だからこそ、相手の震災との距離を確認することにも躊躇してしまう。荒浜小学校へ関心は自らを「外」の人であると示すことに繋がっていたのだろう。「どこから」という問いは念押しの確認だったのかもしれない。荒浜小学校という存在は、まるで震災の記憶の引き金のようだった。
震災遺構 仙台市立荒浜小学校。団体バスもあったが、駐車場は、ほとんどが自家用車で埋まっていた。夏休みで県内からの家族連れや学生の姿が多かった。
1階と2階は津波襲来後の様子が、そのままに残されている。震災直後は学校の児童や教職員、地域住民320人が避難していたという。避難生活の様子も展示されていた。
4階は荒浜地区の被災から復興の様子や災害への備えを学ぶこともできる場所になっていた。
荒浜小学校から、浜辺まで歩いてみる。静かな光景と遠くに聞こえる工事の音。震災後に初めて沿岸部を訪れたときの感覚を思い出した。その静けさは(誤解をおそれずにいえば)時間が止まっているようにも感じられた。そして、その歩く時間を介して、これまで見聞きしていた、この場所での様々な活動と、その情報を介して断片的に記憶していた風景が、ひとつの生態系のように折り重なって見えてきた。「歩く」という身体感覚や「歩ける」という時間や範囲は「生態系を描く」のには馴染むのかもしれない。
海に向けて歩き始める。遠くに津波を経験した、まばらな松並木が見える。
海辺まで荒浜の写真を展示した「海辺の写真展」が開かれていた(主催:海辺の図書館/会期:2017年8月6日~20日)。
海辺には東日本大震災の慰霊と鎮魂を目的とした「荒浜祈りの塔」がある。2013年3月11日に荒浜自治会と七郷連合町内会が建立。高さの9mは荒浜地区を襲った津波とほぼ同じ高さ。慰霊碑には192名の名前が刻まれている。(参考:「施設周辺」せんだい3.11メモリアル交流館ウェブサイト)。
「海辺の写真展」。砂浜にも多くの写真が展示されていた。
里海荒浜ロッジ。remoの松本篤さんに聞いた「3.11オモイデツアー」の話を思い出す(「3.11以前のまちと人に出会う旅」)。右には佐竹真紀子さんの「偽バス停」がある。
道沿いには剥き出しになった建物の基礎が、いくつもあった。そこに寄り添い、覆い被さるように草花が生い茂っていた。仙台市は震災遺構として荒浜地区の住宅基礎の一部の保存を決定した(参考:市長記者会見 平成29年9月6日)。
行きと帰りに渡った深沼橋は、どこか見覚えのある風景だった。せんだいメディアテークのいずれかの活動で目にしていたのかもしれない(「震災前と後の風景<仙台市若林区荒浜>」3がつ11にちをわすれないためにセンター)。
震災遺構は「外」から訪れるには、分かりやすい標(しるべ)となるのだろう。それは震災の経験の忘却に抗う場所としての意味をもつ。次の震災の準備でもある。だが、その物理的な存在は「内」に生きる人々の喪失の想起を誘うものでもある。このジレンマは常に震災遺構の議論の焦点となってきた(※3)。
荒浜の慰霊碑に刻まれた、いまは亡き人々と近親者にとって、震災以前も以後も変わらず、ここは生活を営む場所なのだろう。この場を訪れるときに忘れてはならないのは、他者の生活圏に足を踏み入れているという畏れ(おそれ)の感覚なのかもしれない。だが、そうした想いは、誰もが抱いているものなのだと思う。それは震災から距離を感じている人こそ強くなる。その距離は、時間的にも、これから広がり続けることだろう。だからこそ、震災遺構の荒浜小学校という強い標は、距離を越えて、この土地に足を踏み入れる、ひとつの導(しるべ)としての役割を担っていくのだろう。この場所に限らず、こうした生態系のありようが、東北の地では各地で育まれているに違いない。その予感を実感に変えるために歩き続けたいと思う。
せんだい3.11メモリアル交流館では企画展「みんなでつくるここの地図」(会期:2017年7月11日~10月22日)が開催されていた。会場には荒浜出身のミュージシャンの佐藤那美さんが周辺の沿岸地域で拾い集めた音でつくった音楽が流れていた。帰り道のバスで佐藤さんの「ARAHAMA Callings」を聴いていると、車窓から見える夕暮れの風景と、この音楽から立ち上がる風景が重なって見えた。
シリーズ「7年目の風景」
(2)術(すべ)としてのアート