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アーツカウンシル東京ブログ

アーツカウンシル東京のスタッフや外部ライターなど様々な視点から、多様な事業を展開しているアーツカウンシル東京の姿をお届けします。

Art Support Tohoku-Tokyo

Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)は、東京都がアーツカウンシル東京と共催し、岩手県、宮城県、福島県のアートNPO等の団体やコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援しています。現場レポートやコラム、イベント情報など本事業の取り組みをお届けします。

2018/09/26

風景を重ね合わせる―東北からの風景(1)

今回よりArt Support Tohoku-Tokyoを担当するプログラムオフィサーのコラムシリーズ「東北からの風景」を始めます。今月の9月11日で東日本大震災から7年半となりました。執筆は佐藤李青(アーツカウンシル東京 Art Support Tohoku-Tokyo担当)。事業の詳細はウェブサイトをご覧ください。
http://asttr.jp/


※この数ヶ月の地震、大雨、台風などの災害によって被害にあわれた皆様には心よりお見舞い申し上げます。災害の後から続いているだろう不安な日々が、いち早く心休まるものとなることを願っております。

戦後の焼け跡のようだ。そう思ったのは、初めての東北出張で訪れた宮城県石巻市の風景に触れたときだった。一面、目の前の視界を遮るものはなく、やけに空を広く感じたことを覚えている。地表には泥が堆積し、剥き出しの建物の基礎には無数の日用品が散乱していた。ひしゃげた鉄骨や一階が抜けた建物の姿は、暴力的に過ぎ去った津波の力をまざまざと示していた。人の気配はない。この静かな風景を前に、自ら体験したことのない空襲の後を重ね合わせていた。


石巻市の風景(2011年6月26日)。

東日本大震災の発生を受けて、2011年7月に立ち上がったArt Support Tohoku-Tokyoの担当になってから、さまざまな災害の報道に触れるたび、自然と震災後の東北の経験を重ねて見るようになった。それは現在に限らず、過去の災害や日本の戦後や近代化の過程で人々が経験してきた「負」の出来事も同様だった。むしろ、東日本大震災後に噴出した課題は、どれもが震災以前から社会が内包していたものが露呈したに過ぎないようにも思えた。

けれども、震災から7年の間、この石巻で見えてしまった風景を語ることに躊躇があった。東北に通えば通うほどに「被災」は個々人の経験のなかにあるということを知ったからだ。事業の現場で出会うのは「震災」というトピックではない。固有名をもった誰かであり、何かであり、どこかだった。ひとつひとつの経験に目を凝らし、耳を澄ますことが必要なのだと考えてきた。安易に他の出来事と比較してはいけない、と。「目の前の風景に、踏み止まり続ける」。そう題して終えたシリーズ記事「7年目の風景」を書き繋ぎながら考えていたのも、そんなことだった。

ただ、いまになって、この態度も少し思い直すようになった。震災の経験を他の出来事と重ね合わせるものの見方は、体験の有無を超えて、ある出来事を誰かと分かちもつための架け橋になるのではないだろうか。そう言えるようになったのも、震災から時間が経過したからかもしれない。

そうした視点に出会って来なかった訳ではない。2016年度に制作したインタビュー集『6年目の風景をきく』で、福島県立博物館の川延安直さんは震災の経験を「ここで起きたことはどこでも起こり得ることだし、もしかするとこれまで散々繰り返してきたことなのかもしれない」といい、「福島『を』学ぶ」のではなく「福島『で』学ぶ」ことの可能性を語っていた。

2017年度につくり始めたジャーナル『FIELD RECORDING』の第一号の巻頭インタビューでせんだいメディアテークの甲斐賢治さんは自らの実践のなかに震災を「突き抜けたい気持ち」と「それ以上にずっと引きずりたい気持ち」があるといい、次のように言葉を続けた。

震災だけを見てしまったら、それは同時に水俣を忘れているっていうことになってしまう。沖縄の米軍基地問題も、広島・長崎のこともある。原発はそれくらい長いスパンの出来事なので、そういう意味ではそれらを全部見渡していかなくちゃならない時代だったということに、ようやく気が付いたんだと思います。

※『6年目の風景をきくー東北に生きる人々と重ねた月日』(2016年9月30日発行)と『FIELD RECORDING』(2018年2月2日発行)はArt Support Tohoku-Tokyoのウェブサイト「BOOK」ページにてPDFが閲覧可能。

「かつての未来が、いまを動かす」のではないだろうか。たしか甲斐さんにインタビューをした頃からだったと思う。東北の実践に関わる、少なからぬ人々の目線の先にあった1995年の阪神・淡路大震災の経験が気に懸かるようになっていた。

ひとつの風景を他の出来事と重ね合わせて見るということ。いまも変化し続ける東北の風景にきちんと向き合うためにも必要な態度なのかもしれない。そう思うようになった出来事が、この数ヶ月の間に、いくつかあった。

災害後に「7年目の物語」という現象があるのだという。それは発災から年月が経過し、公的な復興事業に終わり「感」が出て、復興以外に関心が向くようになる頃に民(個人)の声が出てくることを指していた。2018年5月20日に国際交流基金アジアセンター「喪失の中の祈りと覚悟ー映画が映す東南アジアの内戦・テロと震災・津波」のパネルディスカッションで聞いた話だ。

ディスカッションの話題に挙がっていたのは2004年のインドネシアのスマトラ島沖地震だった。この地震でアチェ州のバンダ・アチェは津波の甚大な被害を受けた。東日本大震災が発生した2011年は被災から7年目だった。このときのアチェは堰を切ったように人々が話を聞いてほしいという時期になっていたのだという。そうして出てくる話は2004年の被災に限らず、先の戦争や植民地期のことなど過去の「災い」の経験も多かったのだという。これまで遠くにあるものだと思っていたアチェの話を急に身近に感じるようになった。


ノートの走り書き(2018年5月20日)。何か視野が開けたように感じた。

それから一週間後の5月27日。福島県の「清山飯坂温泉芸術祭」を訪れた。2011年から毎年8月15日に「フェスティバルFUKUSHIMA!」を続けてきた「プロジェクトFUKUSHIMA!」が初めて開催した「小さな芸術祭」だ。会場は休業中の旅館清山。福島駅から飯坂線に乗り換え、電車に揺られて20分程の花水坂駅から数分の距離にある。5月末にしては異様な暑さのなかを歩きながら、2011年に休業前の清山を訪れたときのことを思い出していた。

Art Support Tohoku-Tokyoでは2011年度と2012年度にフェスティバルFUKUSHIMA!の一環である「福島大風呂敷」と関わっていた(※)。その繋がりで2011年7月に飯坂温泉を訪れていた。清山には宿泊していない。けれども、ひょんなことからプロジェクトFUKUSHIMA!のイベント打ち上げの席に参加することになった。その会場が清山だった。事の細部は忘れてしまったが、このとき、清山がプロジェクトFUKUSHIMA!の拠点なのだと知った。いや、根城といったほうが当時の印象に合致する。そうした震災後にこの場に重ねられた関係性が、芸術祭のそこかしこにある親密さを生んでいるように見えた。


※清山飯坂温泉芸術祭で展示されていた「福島大風呂敷」(2018年5月27日)。Art Support Tohoku-Tokyoとして2011年度は「福島大風呂敷」、2012年度は大風呂敷を活用した「福島旗プロジェクト『はた と 想う』」を共催した。アクリルケースに入った大風呂敷は、2011年度に、までいの会プロジェクトシンポジウム「+(プラス)アートの村づくり」(コラッセふくしま、2011年11月4日)の会場や都内事業のTERATOTERA祭り特別企画「TOKYO-FUKUSHIMA!」内でも展示された(武蔵野市立吉祥寺美術館ロビー、2011年10月20日~30日)。

「福島大風呂敷」については活動の中核を担う美術家の中崎透さんの文章を『FIELD RECORDING』の第一号に収録していた。会期終了間近に慌てて、芸術祭を訪れた理由のひとつは中崎さんの作品にあった。どうやら「傑作」が生まれたらしい。すでに芸術祭を訪れた人々のSNSで評判となっていた。

「Like a Rolling Riceball」。そう名付けられた作品は、中崎さんが清山の女将さんにきいた人生の語りをもとに制作されていた。14のチャプターに分けられ、貼り紙になった語りの断片をたよりに清山の一角を巡る。その言葉は、その場の風景に目を向けさせると同時に中崎さんによって並べられ、組み上げられた旅館の無数の「もの」と緩やかに結び付く。戦中、戦後、そして震災という女将の人生の道のりを歩くことは、そのまま清山の歴史に触れることでもあった。まるで旅館がしゃべっているように見えた。




中崎透「Like a Rolling Riceball」の一部の展示風景(2018年5月27日)。ラストシーンは地下のプール跡。蛍光灯が光り(この日は電気に不具合あり)、「Rolling Riceball」という歌が流れ、零戦のプロペラが回っていた。

人が生きるうえで7年という時間は長いようで短い。ましてや、七、八十年を生きてきた人にとって震災は人生のひとつの点のような出来事であり、「最近」のことでしかないのだろう。その人生の語りには必然的に「震災」以外の話が混ざりこんでくる。そうした雑多ともいえる「声」に耳を傾けることに意義があるのではないだろうか。福島県いわき市の県営復興公営住宅である下神白(しもかじろ)団地に通い、「ラジオ下神白-あのときあのまちの音楽からいまここへ-」を続けているアサダワタルさんと、そんな話をしたのは2018年7月のことだった。

翌月の8月14日。完成したばかりの「ラジオ下神白」第4集を聴いた。「ラジオ下神白」では下神白団地の住民を中心に音楽の記憶と人生の語りを集め、ラジオ番組風のCDを制作し、各戸に届けている。番組のパーソナリティも務めるアサダさんは聞き手である下神白の人々に、次のように語りかけて番組を締めくくっていた。

人生の先輩のみなさんを前にして、ぼくのような若造が言うのも、ほんと憚れるんですけれども、番組をつくって、つくづく考えさせられるのは「人に歴史あり」というこの言葉です。震災がきっかけとなって、この下神白団地というコミュニティに、いまみなさんは実際暮らされているかと思います。そして、幸か不幸かということは一旦置いておいて、ただ事実として震災があったことで、いまぼくはみなさんとこの縁を結ばさせていただいております。それはあくまできっかけであって、それ以前の膨大過ぎるみなさんの記憶をですね、こういった音楽とともに振り返る時間は、ほんと気が遠くなるような、でも、たしかにそこにその方々が生きていた重み、そういったものを多少なりとも受け取らせてもらっているような、何とも言えない貴重な時間を過ごしています。そして、みなさんそれぞれの人生を、このラジオCDを通じて、出身街(まち)も世代も超えて、分かち合って、何かしら出会いに繋がることを勝手に願いながらですが、ぼくたちはこんなことをやっています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
(「ラジオ下神白」第4集、「16.エンディング」の書き起こし(一部)より)

※「ラジオ下神白」については「往還する記憶:ラジオ下神白から」「ラジオ番組でコミュニティの『謎』を記録する」、アサダワタル『想起の音楽―表現・記憶・コミュニティ』(水曜社、2018年)に詳しい。

この頃、2011年の震災を経験したからこそ、他の出来事に対して、自分自身の目や耳が開かれてきたのかもしれないと思うことがある。多様な経験や語彙が身体化されることは饒舌な語りを生み出すだけではない。それだけ多くのことを他者から見聞きすることができる身体をつくるのではないだろうか、と。阪神・淡路大震災、戦争と空襲、広島と原爆、ダムに沈む村。いま繋がり始めた出来事は、震災の後に突然現れた訳ではない。これまで目の前を通り過ぎていたかもしれないことを、見聞きできるようになったに過ぎない。

この経験は次の誰かに役に立つ。これからの社会、歴史、人類にとって意義がある。だから、それを予見し、行動をしておいたほうがいい。震災直後に何度も投げかけられ、目にした言葉だった。その意義は理解しつつ、それでも目の前の具体的な出来事に向き合うとき、その言葉にかなう動きを充分にとることが出来なかった。その言葉を疎ましく思うことすらあった。だが、震災直後とはそういうものなのだろうとも思う。いまできることがあれば、時間が経過したからこそ見えるものがあり、分かること、出来ることがある。災害は発生したときが終わりではない。それから続く被災後の時間の始まりなのだと思う。8年目の地点の東北の風景から見えること。次々に起こる各地の災害を前に、少しだけ辛抱強く伝えていきたいと思っている。

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