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アーツカウンシル東京ブログ

アーツカウンシル東京のスタッフや外部ライターなど様々な視点から、多様な事業を展開しているアーツカウンシル東京の姿をお届けします。

Art Support Tohoku-Tokyo

Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)は、東京都がアーツカウンシル東京と共催し、岩手県、宮城県、福島県のアートNPO等の団体やコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援しています。現場レポートやコラム、イベント情報など本事業の取り組みをお届けします。

2017/12/12

かつての未来が、いまを動かす― Art Support Tohoku-Tokyo 7年目の風景(6)

シリーズ「7年目の風景」はArt Support Tohoku-Tokyoを担当するプログラムオフィサーのコラム、レポートや寄稿を毎月11日に更新します。今月の11日で東日本大震災から6年9ヶ月です。執筆は佐藤李青(アーツカウンシル東京 Art Support Tohoku-Tokyo担当)。事業の詳細はウェブサイトをご覧ください。
http://asttr.jp/


「未来から来た人のようだ」。震災後の東北でそうした台詞を何度か聞いた。最初は東北の人々が1995年の阪神・淡路大震災の後を経験した人々と出会ったときだった。震災直後から現地には、いち早く関西から多くの支援者の方々が訪れていた。そこで語られた過去の経験は、これから直面する課題を未来で見てきたかのようなものだったのだという。それは当事者の心情を察知し、その先の行動を予見する、無言の振る舞いにも現れていた。

2016年の熊本・大分地震の後に仙台では、逆の立場で、同じような話を聞いた。震災の経験を聞きに訪れた熊本の方々に仙台の仮設住宅で起こった経験を伝えたときに、驚きとともに未来から来た人のようだと言われたのだという。更新される災害の経験は過去の記憶を未来の予見に変化させた。震災後の東北で動いた人々を見ていると、ときとして個人の身体に刻み込まれた(社会的な被害の大小を問わない)過去の災害の記憶が、その実践を後押ししているようにみえた。

2013年1月26日。せんだいメディアテークで震災後の芸術文化活動をテーマにフォーラム「なんのためのアート」を開催した。震災から1年が過ぎた頃から、各地で震災後を振り返り、語り合う場をつくることが求められるようになった。「なんのためのアート」のチラシには「震災という非日常を契機に生じたこれらの動きが、日常へ向かう今後の復興過程でどのような継続性を持ちうるのか」という問いかけがある。こうした場が求められた背景には、思ったよりも早く戻ってきた「日常」への危機感があった。

震災を経験した土地で、震災後の自らの実践を振り返ってみる。舞台中央の登壇者の話を囲みつつ、参加者同士で言葉を交わす仕掛けづくりにも注力した。震災後2年を目前にした時期であったとしても、誰もが言葉を探しながら発言をしているようにみえた。あらためて当時の映像を観ても、その緊張感が伝わってくる。そして東北の実践をありのままに話すだけでなく、少し距離をとって、その意義に触れようとするとき、東北以外の経験と結びつけて語ることも多いようにも感じた。人は語りえないものと向き合うとき、近しい経験を介して語り始めるのかもしれない。

「なんのためのアート」は「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のウェブサイトにて全編視聴可能。自らの経験と照らし合わせながら「アート」の意味を問い、考察した畠山直哉さんの基調講演は聴衆に強い印象を残した。当日の登壇者の多くも畠山さんの話に応答するように議論を展開していた。正式名称は、芸術銀河2012×Art Support Tohoku-Tokyo「なんのためのアート」。主催:宮城県、みやぎ県民文化創造の祭典実行委員会、東京都、東京文化発信プロジェクト室、えずこ芸術のまち創造実行委員会、共催:せんだいメディアテーク、事務局:アートリバイバルコネクション東北。特徴的な会場構成の制作過程は「仕事を知る5」『思考と技術と対話の学校 基礎プログラム「仕事を知る」講義録 2014』(公益財団法人東京都歴史文化財団、46-53頁)に詳しい。

アーティストの日比野克彦さんと水戸芸術館現代美術センター学芸員の竹久侑さんのクロストークでは、阪神・淡路大震災の経験が両者の実践の「はじまり」にあったことが明確に語られていた。日比野さんは震災4日後の3月15日に「ハートマークビューイング」を開始した。その発端には「阪神淡路のときには、何もできなかった、何していいのか分からない、どう動いていいのか分からない」、「行くのが精一杯」で「写真も撮れなかった」のだという「ついこの間」の経験があった。日比野さんは竹久さんが企画した「3.11とアーティスト|進行形の記録」展の図録に「ハートマークビューイング」までの経緯を次のように整理して書いている。

1995年の阪神・淡路大震災のときには、私個人が私物の画材を持って神戸に住む友人のアーティストを訪ねて行き、二人で災害地の喫茶店の看板を制作したりするという個人的な活動を行ないました。2004年の新潟県中越地震では、知り合いに声をかけて画材を集めてともに被災地を訪ね、被災者の人たちと絵を描く時間を過ごしました。これらの経験をふまえ、2011年の東日本大震災においての活動は、それまでの災害時とは異なり、被災地に行きたいけれど行くことのできない人たちの気持ちを被災者に届けることを第一の活動趣旨としています。
「作家インタビュー 日比野克彦(アーティスト)」『3.11とアーティスト|進行形の記録』、99頁。

一方、竹久さんは震災から1年7ヵ月後に「3.11とアーティスト|進行形の記録」展を企画した。本展は、震災後のアーティストの活動をいち早く包括的に紹介した展覧会となった。かたちに残りにくい活動や評価の定まっていない表現が「進行形の記録」として提示された。前述の日比野さんの言葉のようなアーティストの震災に対する思考や震災後のアート活動を精緻に追った年表などを付与した資料性が高い図録も制作されていた。こうした「記録」に対する態度は、ご自身にとって「遠くない経験として(記憶に)残っていた」阪神・淡路大震災の後を「前例として調べた」が、アート活動に関して「体系的にまとめられた資料が見つけづらかった」記録への「渇望」があり、「(資料が)手に入らなかった」という経験によって生まれたのだという(※1)。

※1 そのなかでも阪神・淡路大震災後の芸術文化分野の動きは『阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査報告書』(阪神・淡路大震災 芸術文化被害状況調査研究プロジェクト委員会、1995年8月)で参照可能だった。震災直後に印刷版しかなかった本報告書は2011年3月29日に企業メセナ協議会のウェブサイトでPDF公開された(現在もアクセス可)。前例の資料が「なかった」経験からArt Revival Connection TOHOKU(ARC>T)は2年間の活動の「事実」を詳細に収録した『アートリバイバルコネクション東北活動報告 2011.3-2012.4』(ARCT、2017年3月1日)を作成している。

体験的に遠くはない阪神・淡路大震災に「なかった」ものは、東日本大震災での迅速な活動を「ある」ものへと動かした。東日本大震災後の初動の多くは、こうした経験のリレーに支えられていたように思う。Art Support Tohoku-Tokyoも例外ではなかった。

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福島県喜多方市山都中学校での「ハートマークビューイング」の実施風景(2011年8月3日)。色とりどりの布にハサミや木工ボンドを使ってハートマークのパッチワークを行う。日比野さんは震災直後から日本各地でハートマークビューイングの実施を重ね、2011年4月29日に福島県西会津町、喜多方市にそれらを届け、東北各地でもワークショップを始めていた。その後、福島県立博物館の方々をパートナーとして県内の活動を展開していた。ASTTの福島県の活動は過去の投稿で触れたように福島県立博物館の方々との出会いから始まったが「ハートマークビューイング」を支える体制に追って重なるようにして事業を展開してきた。

東日本大震災でのアーティストの行動は早かった。阪神・淡路大震災のときにはなかったことだった。「なんのためのアート」で登壇者が何度か口にしていた言葉だが、竹久さんは、そうしたアーティストの行動の特徴を「90年代、とりわけ阪神・淡路大震災後の90年代後半から各地で目立つように」なった「アートプロジェクト」に着目し、次のように書いている。

美術館の制度から離れて各地で展開したこうした美術の風潮が、アーティストら芸術文化に携わる一部の者に、美術の対象としての「市民」、ひいては美術の公共性について自覚的に考えることをうながした。このことは、このたびの震災を受けてなされたアーティストによる活動を考えるうえで、ひとつの参考例と言えるだろう。
竹久侑「本展の企画についての記録と考察」『3.11とアーティスト|進行形の記録』、146頁。

ASTTは東京都内で「アートプロジェクト」を対象とした「東京アートポイント計画」の手法を転用している(※2)。竹久さんの視線の先にある事象とASTTの現場は重なるところも多いだろう。実際に「3.11とアーティスト|進行形の記録」展にはASTTと関わりの深いアーティストが多く参加していた。

※2 東京アートポイント計画と「アートプロジェクト」の関係は「はじめに|アートプロジェクトを動かす『ことば』を紡ぐ」(ネットTAM、2017年)に詳しい。

1995年の震災を経験した後の社会で培われたアーティストの作法が、2011年の震災を契機に機動力を発揮した。こうした社会的な実践と経験のリレーが、東日本大震災後の動きを支えていたのだろう。もちろん、そうした作家や表現のすべての起源を震災に求めるのは短絡的だろう。だが、ある「危機」を経験した社会、そして個人から、危機に立ち向かう表現の作法が生まれてくる。ここには表現が生まれる、ひとつの本質があるようにも思えてならない。表現とは常に何らかの危機の意識から生まれてくるのではないだろうか。この危機とは「災害」には限らない。日常のなかにだって無数の危機はあるのだから。

未来に過去の繰り返しを悔やむのではなく、次の「現在」を迎えたときに「未来」としての振る舞うことができるだろうか。東北の現場に関わり続けながら、この問いを常に突きつけられているように感じる。同時に東北で延伸し続ける震災の後と、どう向き合っていくのか、手探りであることは変わらない。そうしたときに過去の経験の「後」が気に懸かるようになった。直後や初動の記憶は語りやすい。だが、実際に「後」は、それからも続いているはずだ。少し落ち着いた、今だからこそ手を伸ばせる、その地点に震災の後から「先」に行くための手掛かりがあるように感じている。

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「なんのためのアート」の会場では「阪神・淡路大震災+クリエイティブ タイムラインマッピング プロジェクト」が作成した阪神・淡路大震災後のアート、デザイン、建築の復興に関連するイベントなどを収録した年表を配布した。本プロジェクトのウェブサイトは現在も更新されている。

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新長田駅近くの鉄人28号モニュメントの後ろから街を眺める(2017年11月24日)。この日は阪神・淡路大震災から20年の2015年に始まった「下町芸術祭」を訪問した。NPO法人DANCE BOXが、この地域で着実に積み上げてきた活動の数々を伺った。


シリーズ「7年目の風景」

(1)「被災地支援」を再定義する

(2)術(すべ)としてのアート

(3)生態系を歩く

(4)「平時」を書き換える

(5)どんなときでも始めることができる


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