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アーツカウンシル東京ブログ

アーツカウンシル東京のスタッフや外部ライターなど様々な視点から、多様な事業を展開しているアーツカウンシル東京の姿をお届けします。

Art Support Tohoku-Tokyo

Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)は、東京都がアーツカウンシル東京と共催し、岩手県、宮城県、福島県のアートNPO等の団体やコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援しています。現場レポートやコラム、イベント情報など本事業の取り組みをお届けします。

2017/10/11

「平時」を書き換える ― Art Support Tohoku-Tokyo 7年目の風景(4)

シリーズ「7年目の風景」はArt Support Tohoku-Tokyoを担当するプログラムオフィサーのコラム、レポートや寄稿を毎月11日に更新します。今日で東日本大震災から6年7ヶ月です。執筆は佐藤李青(アーツカウンシル東京 Art Support Tohoku-Tokyo担当)。事業の詳細はウェブサイトをご覧ください。http://asttr.jp/


震災直後は「何をするか」よりも「誰と出会うか」が重要になった。都内で経験を積んできた事業スキームを活用するとはいえ、当然のように東北に事業パートナーはいない。まず誰に会えばいいのか、どこに行けば可能性がありそうなのか、行動に移せる具体的な情報が必要だった。いち早く動き出していたアーティスト、すでに現地入りをした人や支援に乗り出そうとする団体のスタッフ、東北出身の知り合いなど、あらゆる手を尽くした。偶然目にした新聞記事から直接問い合わせたこともあった。

だが、非常時だからこそ信頼できる情報が欲しい。これから立ち上げる事業には実績もなく、明確な説明がしづらい。なにより「支援」には現地状況を踏まえた事業展開が必須である。状況に寄り添うために動き方は手探りにならざるをえない。そうしたときに機能したのは平時に培った関係性だった。人から人へのリレーの出発点は震災以前に仕事をしたことがあった人、もしくはお互いのやり方を知っている人が多かった。そしてリレーの先で出会った人々の多様性が、事業の、すなわち「支援」の幅を生むことになった。

いま、何かが起こったときに、誰に連絡をとるだろうか? 関係は深くなくとも構わない。あの人に聞けば何か分かりそうだ、と思い浮かぶ人が、どれだけいるだろうか? いつしか、そう考えるようになった。

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「雄勝法印神楽 舞の再生計画」で制作した組立て式の舞台で神楽衆が初めて舞う(2011年10月2日)。当初「芸術文化」の支援対象として想定しえなかった「民俗芸能」への支援の緊急性を理解したのは、現地状況に知悉する方々との出会いがきっかけだった。本事業のプロセスは「CASE3 雄勝法印神楽 舞の再生計画【石巻市雄勝町】 八巻寿文(せんだい演劇工房10-BOX二代目工房長)」『東日本大震災後、4年目の語り。』(東京文化発信プロジェクト室、2015年、55-76頁)や「シリーズ:口伝・でんでん 舞台が来たぞ!雄勝法印神楽」(3がつ11にちをわすれないためにセンター)に詳しい。

わずかな伝手を頼りに現地に向かう。そこから新たな出会いに繋いでもらう。上手くいったときは数珠繋ぎでリレーは続いた。ようやく何かを始められそうな人と話を始める。だが、そうして出会ったほとんどの人々は多忙を極めていた。「外」からのあらゆる支援の話が集中していたからだ。限られた時間のなかで何度も会話を重ねる。少しずつお互いを知り合い、めまぐるしく変化する状況に急いで応答をしていった。

2011年7月4日。東京藝術大学特任准教授で福島県出身の伊藤達矢さんの「福島県立博物館が良いと思います」という一言が福島県での事業の出発点となった。7月20日には福島県立博物館(以下、県博)を訪問し、学芸員の川延安直さんと小林めぐみさんにお会いした。当時の様子を川延さんは次のように記している。

まず、福島の現状は、というお尋ねから始まりましたが、何しろ福島の現状は混沌としています。一言でお伝えできないもどかしさを感じました。
『会津・漆の芸術祭 スタッフ日誌』、2011年7月20日

「いま、何が必要ですか」という(まず聞かざるをえない)漠然とした問いは、ときに大きな負荷となっただろう。現場に近ければ近いほど目の前の状況は常に具体的で切実だ。誠実に向き合えば向き合うほどに「全体」を語ろうとすることが、その具体性を捨象するように思えてくる。そもそも、状況を知れば知るほどに全体など誰も語りえないことにも気がつくのだろう。その経験と逡巡の一端を共有するために、同じ場所に身を置き、ともに状況に向き合うことが必要だった。「とにかく、こちらに来てください」。いろいろな人に何度も言われた台詞だ。

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建設中の仮設住宅(2011年7月20日)。県博の初訪問後は、川延さん、小林さんの紹介で緊急シンポジウム「福島の未来と会津の役割~原発から自然エネルギーへ~」(大和川酒蔵北方風土館/喜多方市)に参加した。川延さんは先の『スタッフ日誌』を「私の拙い話しより、あの会場の空気を感じていただけたことが何よりでした」と締めくくっている。会場へ向かう道中に仮設住宅の建設現場を見学した。

2011年11月。福島県の最初の事業「週末アートスクール」を実施した。中通りのこどもたちを対象とし、会津地域でアーティストのワークショップと地域の文化に触れる機会をつくった。舞台は西会津町、喜多方市、三島町の3つの地域。それぞれに自律的な実施体制づくりを重視し、参加者の受け入れは、各地域の団体が行った。この迅速な事業展開は、県博の「県」の文化施設としての地域を越えた縦横無尽な働きと、「会津・漆の芸術祭」の実践や「奥会津アートガーデン」の構想など震災以前から耕していた地域との関係性が可能としたものだった(※1)。

※1 福島県での事業の経緯は『6年目の風景にきく―東北に生きる人々と重ねた月日』に収録した「note4 文化の種を蒔き、芽を育む」(79-80頁)、「data3 会津から「福島」への広がり」(98頁)に詳しい。県博の動き方は震災後の「はま・なか・あいづ文化連携ブロジェクト」(2012〜)にも象徴的に現れている。

市町村という自治体の枠組みを越えて動くこと、文化施設が施設内の活動に留まるのではなく、地域の文化的な拠点として機能すること(※2)。震災後の状況に応答するためには、さまざまな線引きを越えていくような「越境」の作法をもつことが重要だった。それは県博に限らず、本事業のパートナーとなった文化施設の震災後の働きに共通していた。

※2 現地を歩いてみると行政区の名称と、そこに住む人々が言う地名が違うことが、よくあった(とくに合併した自治体)。地域の文化的な特性(歴史や人の気質など)は後者の枠組みで語られた。あるとき、そういう地域区分は「藩」の視点で見るといいと教わった。また一般財団法人地域創造の『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究—文化的コモンズの形成に向けて−』では文化施設を地域の多様な主体との連携や専門性を発揮する機関として「文化拠点」という言葉で表現している。

そして、その現場の担い手たちは誰もが震災以前から通底する信念をもっていた。芸術や文化に携わる矜持(きょうじ)があった。だからといって、頑(かたく)ななのではない。その場で手をともにする人々と右往左往し、ちゃんとおろおろしていた。そのしなやかさとしか呼びようのないふるまいは、平時に培われていたものだった。言い換えれば、平時の真価が緊急時に表出したに過ぎなかった。さらに言えば、震災は、その潜在的な可能性を拓くことをも後押しした。

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南三陸町の風景(2011年6月29日)。東北への初出張ではえずこホール(仙南芸術文化センター)の「藤浩志とカンがえるワークショップ」に参加した。一般の参加者と北は宮城県の南三陸町から南は福島県の新地町までを巡った。後に本プログラムの続編がASTTの事業となる。えずこホールは宮城県南部2市7町(仙南地域)の「圏域」を対象とした文化施設。震災後にいち早く圏域を越えた活動に着手をした。その背景と経緯は『6年目の風景にきく―東北に生きる人々と重ねた月日』のインタビュー「水戸雅彦(えずこホール館長)」、「note3 境界を越えて動く」、「data2 震災直後、宮城の演劇人の動き」(46-62頁)に詳しい。

しかし、そうした働きも物理的な復旧が進むと、震災以前の枠組みに収束させる力が急速に強まった。越境行為は、本業ではない、特例だった、と。非常時だったとはいえ、あのときの経験は「本」来すべき「業」務でもあったのではないだろうか。越境の先に垣間見えた未来に合わせて、現在を書き換える契機も孕んでいただろう。それを実感した人は少なくなかったはずだ。だが、平時が戻ってくると、その切実さは声を潜めていった。

せんだい演劇工房10-BOXで二代目工房長を努めていた八巻寿文さんは、2016年に当時を振り返って、次のように語っていた。

あのとき、自分の判断で英断をした館長さんや現場の人々が各地にたくさんいたはずですが、それが正しかったのか、正しくないんだったらどうすればよかったのか、評価や反省がなくて、何もなかったことになろうとしている。

とにかく自信は一切ないんですよ。怖かったです。ただ必要だと言っている人がいて、僕もそうだなと思ったからやっただけで、誰かに断ったわけでもないし、それがなぜかをちゃんと説明できるわけでもない。自分がやっていることが正しいかどうかはあとで分かればいいと思っていたけど、いつまで経っても分からない。こうした現場の葛藤こそ、皆でふりかえるべきだと思っています。
(『6年目の風景をきく』37-38頁)

こうした無数の声は、きっといまも聞き手を待っているのだろう。その声は小さいが、確かに存在する。聞こえなくなってきたのではない。ただ、聞こうとしなくなってしまったからではないだろうか。自戒を込めて、そう思う。

震災直後に奔走した人々は、あの頃に見てしまった未来と(何事もなかったかのように)戻ってきた過去の間を、いまも行き来しているのかもしれない。静かに口を閉ざそうとしている人の声に耳を傾け、平時の壁に抗おうとする人々の後押しをするために何ができるだろうか。それは「気づいてしまった」人たちのみが引き受けるべきことでもない。

すべては震災から始まった。だが、それから起こったことは、震災の経験に限定しない「わたしたち」の、そして「平時」の話なのだと思う。東北の実践を、東京という地点を活かして、いまだ出会っていない「わたしたち」へとリレーを繋いでいくことが必要なのだと感じている。受け取ったバトンは次に渡さなければならない。

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岩手県大槌町の真新しい道路の上を走る車窓から(2017年8月30日)。住宅もまばらに建ち始めるなかで、区画を網羅する電柱が目立つ。車中で「こんなに電柱ってあったんですね」「せっかく土盛りしたならば、ついでに埋めちゃえば(地中化すれば)よかったのに」「いや、震災の前にあったものに戻すことが復旧だから、こういう電柱の立て方じゃないと駄目らしいです」という会話をした。本当にそうなのか。真偽は分からない。だが、この7年目の風景に、震災後の「平時」の書き換えの難しさを改めて感じた。


シリーズ「7年目の風景」

(1)「被災地支援」を再定義する

(2)術(すべ)としてのアート

(3)生態系を歩く


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