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アーツカウンシル東京のスタッフや外部ライターなど様々な視点から、多様な事業を展開しているアーツカウンシル東京の姿をお届けします。

Art Support Tohoku-Tokyo

Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)は、東京都がアーツカウンシル東京と共催し、岩手県、宮城県、福島県のアートNPO等の団体やコーディネーターと連携し、地域の多様な文化環境の復興を支援しています。現場レポートやコラム、イベント情報など本事業の取り組みをお届けします。

2018/01/12

往還する記憶:「ラジオ下神白」から― Art Support Tohoku-Tokyo 7年目の風景(7)

シリーズ「7年目の風景」はArt Support Tohoku-Tokyoを担当するプログラムオフィサーのコラム、レポートや寄稿を毎月11日頃に更新します。今月の11日で東日本大震災から6年10ヶ月です。執筆は佐藤李青(アーツカウンシル東京 Art Support Tohoku-Tokyo担当)。事業の詳細はウェブサイトをご覧ください。
http://asttr.jp/


「この前、パーティーにおよばれしたんですよ」
「あ、それって、もしかしてYさんのお宅じゃないですか?」
「え、そうです、Yさんです」

2017年11月22日。福島県いわき市の下神白団地に向かう車中で特定非営利活動法人Wunder ground(以下は通称の「ワングラ」)の阿部峻久さんに「ラジオ下神白―あのときあのまちの音楽からいまここへ―」(以下、ラジオ下神白)の近況を伺ったときのことだ。最近、ラジオ下神白で知り合った住民の方のお宅に、この活動を仕掛ける文化活動家/アーティストのアサダワタルさんとプロジェクトメンバーが招待されたのだという。阿部さんの話を聞きながら、その住民の方が、Yさんなのではないかと思った。Yさんとはお会いしたことはない。だが、ちょうど前日に東京で聴いた『ラジオ下神白 第2集 あの頃の仕事・家族の風景』(以下、『第2集』)の出演者のひとりだった。その声の印象が冒頭の会話に繋がった。

下神白団地は震災後に福島県が建設した復興公営住宅だ。東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で住まいを離れざるをえなかった双葉郡4町(富岡町、大熊町、浪江町、双葉町)の方々が、6つの棟に分かれて暮らしている。この団地を舞台にラジオ下神白は住民の方々の人生やまちの記憶を思い出の音楽とともに伺い、その声の集積を定期的にラジオ番組として編集したCDを制作している。これまで『ラジオ下神白 第1集 常磐ハワイアンセンターの思い出など』(2017年2月27日収録)と『第2集』(同年2月28日、7月3日収録)の2つが発行されている。

出来上がったCDはアサダさんとプロジェクトメンバーの手によって下神白団地に全戸配布されている。語り手の記憶はかたちとなって別の人の手に渡っていく。ある人の思い出の曲は別の方の思い出の曲だったこともあるのだという。メディアを介して再生された記憶は、他者の記憶を触発する。CDにはリクエストハガキも同封されており、集会所にはポストも設置してある。このハガキを介した交流も生まれているのだという。ラジオ下神白では団地の住民とプロジェクトメンバーを中心に静かな記憶の循環が起こり始めている。


ラジオ下神白のCD(右が『第1集』、左が『第2集』)は手製のケースにリーフレットとリクエストハガキが同封されている。現在は下神白団地内のみに配布されている。

『第2集』でのYさんの語りは次のようなものだった。

震災のときは富岡町に住んでいた。30代前から42歳までは東京にいた。若い頃から英語をしゃべりたかった。戦争中と終戦直後は敵国の言葉だった。憧れがあったけど、学校でも習えない。ご法度で悔しかった。戦後に駐留軍が来るということを聞いた。そこで売店の仕事に就いた。「お掃除でもなんでもいいんです、とにかく外人と会ってしゃべってんのを聞きたい」と飛び込んで…。

この一連のエピソードが冒頭の「パーティー」という言葉とYさんを結び付けた。ほかにも『第2集』には生い立ちやご家族のことなどYさんの人生の歩みの数々が思い出の曲を挟んで、約5分ずつ、2つのトラックにわたって収録されている。

ここまでの話の内容は、いまCDを聞き直して書いている。11月に下神白団地を訪れたときは前日に『第2集』を一度聴いただけだった。話の内容を覚えていたというよりも、Yさんを想起したのは、その声から獲得した人柄の「印象」に過ぎなかった。東京で聴いたCDの声を介して下神白団地のYさんと、すでに出会っていた。「誰かと出会う」ということは必ずしも面と向かって会うことだけではないのだろう。

本来、身体から切り離すことの出来ない声はメディアに定着することで物理的な距離を越える。メディアから再生される声に触れることは、その人と出会ったような親密さがある。ラジオをつくる一連の行為は話し手と聞き手の距離を越えた出会いを生み出す仕掛けともなる。ラジオ下神白は人と人が出会い、交わる、もうひとつの回路を拓いているように思えた。

実際に下神白団地の内でも新たな出会いは起こっている。団地には集会所がある。そこでは団地住民の交流を促すための、いくつもの試みが行われているが、集会所に足を運ぶことが難しい人も多い。そうした状況のなかで声の収録とCDの配布に「訪問する」というラジオ下神白の活動は、集会所での交流からは見えてこない人々との接点づくりになっているのだという。こうした既存の活動では生まれにくい交流の接点づくりは、この下神白団地という場所でプロジェクトを始めた、そもそもの動機とも繋がっている。

2013年の秋頃。福島県文化振興課の諏訪慎弥さん(所属は当時)から、ひとつの問い合わせがあった。(当時報道等で目にすることが増えていた)震災によって生まれた地域コミュニティの軋轢や分断、これから建設が始まる復興公営住宅において起こりうる課題に、何か文化的なアプローチで向き合うことができないだろうか、と。2012年度からArt Support Tohoku-Tokyoは福島県と共催し、「福島藝術計画×Art Support Tohoku-Tokyo」を展開していた。ちょうど翌年度の事業を検討している時期だった。

事の発端は県の復興を担当する部署から文化振興課への相談だった。福島県は震災と原発事故を経験し、前例のない課題に取り組まざるをえない。それゆえに出来うる限りの多様なアプローチをもつべきなのではないだろうか。そうした問題意識から議論が始まった。この延長線上に議論は実を結ばなかったが、すでにワングラと現場をつくり始めていた、いわき市で事業の準備を始めることになる。


2014年5月14日。建設中の下神白団地を隣のスーパーの駐車場から眺める。

下神白団地は2015年1月に建設が終了し、住民の入居が始まった。課題とされるものは、いくつもあった。複数の自治体から避難してきた人々が同じ団地で暮らすということ。道路を挟んで向かい側には被災状況も違う、いわき市の災害公営住宅が建っているということ。住民のほとんどが高齢者であるということ。細かく挙げると切りがないが、住民の分断や孤立が共通した懸念点だった。集会所には県の「コミュニティ交流員」が配置された。「交流」の方策が求められていた。

そうした状況下で、まずは2015年6月から「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」が下神白団地で「いわき七夕プロジェクト」を実施する。そして、そのバトンを受けるように福島藝術計画×Art Support Tohoku-Tokyoではワングラが「イトナミニティプロジェクト」と名づけた活動を同年9月に開始する。集会所を軸にコミュニティ交流員の方々と連携をし、ちぎり絵やおでん屋台づくりなどの作業を介して住民間の関係性づくりを試みた(※)。

※2015年度のプロジェクトの詳細は『コミュニティとアート 被災地いわきからの提言~来るべき超高齢化社会のために~』(福島県・東京都・アーツカウンシル東京・特定非営利活動法人Wunderground、2016年)に収録されている。はま・なか・あいづ文化連携プロジェクトの取り組みは『いわき七夕プロジェクト記録集』(はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト、2016年)にもまとめられている。


2015年10月8日。右手に見えるのが県営の復興公営住宅(下神白団地)、左手が市営の災害公営住宅。この日、コミュニティ交流員の方に初めてお話を伺う。当時は約200世帯が入居しており、75歳以上が約40世帯、60歳以上になると約80世帯、いずれも独居の数で(高齢者同士の)同居も含めると約160世帯が高齢世帯だと聞いた。


2015年10月8日。集会所では福島藝術計画×Art Support Tohoku-Tokyo「イトナミニティプロジェクト」の一環として「ちぎり絵屏風」づくりの作業が行われていた。

「これからはお祭りではなく、日常のなかで続いていくかたちで進めたい」。1年間、プロジェクトのコーディネーターとして下神白団地に通い続けたワングラの会田勝康さんの実感をベースに2016年度に取り組むべき次の一手を検討した。初年度はさまざまな人々と関係をつくるためにも、共同作業を介した祝祭的な活動が必要だったが、団地では、これからも日常は淡々と続く。集会所を中心にプログラムをする/されるという関係を固定化させてはいけない、という危機感もあった。

2016年11月23日。東京駅で会田さんとアサダさんは初めて会うことになる。それから、アサダさんは下神白団地へ毎月のように通い、ラジオ下神白は育まれていった。そうして、ちょうど1年が経とうとする頃に、アサダさんはラジオ下神白の現状と展望を次のように語っている。

この間も、富岡の方にCDを配りに行ったら、もうその方は富岡に戻る決心をされたそうです。だから、この団地の場合は、いずれこのコミュニティを閉じる日が来るということを考えなければならないかもしれません。
(中略)
どこに移り住んでも、ここに残っても、どんな選択をしても、集会所で過ごしたり、このラジオを聴いたりして、誰かに何かが残り、次の土地にいったときにも、それが残り続けるというか。その後につながるようなものが作れたらいいなと思うんです。
(中略)
もちろん、ここを去っていく人たちの心の中に残っている音楽をインタビューするとか、そういう具体的な次元の行動も必要かもしれませんが、コミュニティが閉じられたり、次の場所にいったとしても機能するかもしれない、そういう何かを一緒に作っていけたらなと思います。コミュニティをみんなで盛り上げるというのとは別のベクトルというか、この団地のような離合集散にも価値があるんだと、離れてこそ機能するものもあるんだということを、いまはまだ何かわからなけれど、この場所で探し出せたらと思います。
「INTERVIEW アサダワタル ラジオ番組でコミュニティの「謎」を記録する」福島藝術計画×Art Support Tohoku-Tokyo、2017年12月21日)

2017年3月31日に浪江町、川俣町、飯舘村、同年4月1日に富岡町の避難指示が解除された。その変化は下神白団地にも訪れていた。いまも住まいを変える人たちがいる。変えざるをえないともいえるし、変えないことすら選択を求められる。震災の後はいまも延び続けている。ふと数年前に福島市で暮らす飯舘村の方に聞いた言葉を思い出す。「(被災した他県は)津波は来たら(復興が)はじまるんだけど、おれらは、まだ始まってもいねぇんだ」。ここでは震災の後を始めることが、いまも続いている。


2017年11月22日。下神白団地の2号棟から眺める。計6棟で構成される下神白団地は1号~2号棟と3~6号棟で少し距離がある。写真中央の集合住宅が3~6棟、右隣が市営の災害公営住宅。その手前、写真右手の戸建ても災害公営住宅。

「ラジオ下神白」関連記事

「震災6年 文化でつなぐ(下) アートが築く語らいの場」『読売新聞』2017年3月8日。
アサダワタル「表現――「他者」と出会い、「私」と出会うための「創造的な道具」」『現代思想』2017年8月号、204-212頁。

アサダワタルさん関連プログラム

1/21開催|「音盤千住」レコ発企画|聴きめぐり千住!(アートアクセスあだち 音まち千住の縁)
タウンレコーダーが音を採集しに出かけた千住に、それぞれの制作した音を還す一日。
1/27開催|Artpoint Meeting #04 -日常に還す-(東京アートポイント計画)
アートプロジェクトの言葉をつむぐトークイベント。「日常」に「文化」はどう作用するのか?


シリーズ「7年目の風景」

(1)「被災地支援」を再定義する

(2)術(すべ)としてのアート

(3)生態系を歩く

(4)「平時」を書き換える

(5)どんなときでも始めることができる

(6)かつての未来が、いまを動かす


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