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コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

2021/01/28

聴くを描くことで視える世界

デザインリサーチャー
清水 淳子

~これからの芸術文化のウェルビーイングとは〜(全3回)
身体的、精神的、そして社会的に「よい状態」のことである、「ウェルビーイング(Wellbeing)」。
「with コロナ」の時代における、芸術文化の「ウェルビーイング」について、ドミニク・チェン氏をスーパーバイザーに迎え、特別編として全3回でお送りいたします。第2回は、デザインリサーチャーの清水淳子さんにご寄稿いただきました。

広義の「表現すること」が人のウェルビーイングにどう影響するのかというテーマは認知心理や教育など、様々な領域で研究されてきました。今回は、わたしがディレクターを務める21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展』にも作品を出展して頂いた清水淳子さんと長谷川愛さんに、表現の当事者としての観点から芸術とウェルビーイングについてご寄稿をお願いしました。

アートとデザインの枠を拡張し続けるお二人それぞれにとって、表現行為がどのようにウェルビーイングを構成するのかというヒントに溢れた内容を頂きました。清水淳子さんはグラフィックレコーディングを描く経験を介して聴くことと視ることが接続され、他者と自己の認知が深まる過程を記述され、長谷川愛さんは自分の痛みと絶望を表現の起点に据えたことで、自分で自分を自由にできたと説かれています。お二人の視点に共通するのは、表現が自分自身や周囲との関係性に変化を促す動きであるということです。

このような内側からの視点は、表現とはとりもなおさず学習であるという気づきをもたらします。それは、固定化された表現の結果だけではなく、変動するプロセスへの注視をも促すものです。であれば、変化の過程の中にウェルビーイングの因子を求めていくことが必要になるでしょう。ぜひ読者の皆さんとも共に考えていければ幸いです。

ドミニク・チェン


言葉にできない疑問や不安

「…なーんかモヤモヤする…。」そう思いながら1日が終わることがよくある。例えば、飲み会でみんなが大爆笑してるのに、少しも笑えなかった時。自分にとって心地いい過ごし方が、共に過ごす家族からは理解されなかった時。誰かと話をしてる時に、相手にとっての日常が、自分にとっての特別だったと知った時。たぶん、自分と他者とのズレを感じた時にモヤモヤは生まれる。ここで言うモヤモヤとは、シンプルな言葉で言い切ると、言葉にできない疑問や不安のようなものである。違和感なんかも近いかもしれない。

モヤモヤは平凡な日常の中で急に現れる。竜巻のように猛スピードで巻き起こったり、じわっと砂漠の蜃気楼のように生まれたり、モヤモヤと出会うタイミングは突然で予測がつかない。モヤモヤが現れると、眼鏡を外してる時のように世の中がぼやけて見える。今の自分の見ている光景は正しいのか? どうしてみんな平気なのか? もしかしたら自分ひとりだけが見てる幻覚なんじゃないか? 孤独に立ちすくむことになる。刺激の残像、音の無い影のパレードのよう。

消えないモヤモヤの行き場は何処?

モヤモヤは何かの拍子に、突然さらーっと流れて、綺麗さっぱり消えることもある。だけど時々、全身を飲み込むように膨張し続ける複雑なモヤモヤになることもある。そうなってしまうと厄介だ。全然関係なかったはずのことにもモヤモヤしてくる。触れるものすべての輪郭がドロッとぼやけていく。いつ消えるのかわからないモヤモヤと共に日常を過ごすのは大変居心地が悪い。濡れた服を着て過ごしてるような気持ちになる。

誰かに話せれば良いが、なかなか消えないモヤモヤは、色々な理由から知り合いには言えないことだったりもする。じゃあ誰か知らない人に依頼するとしても、一体誰に…? モヤモヤの整理。ビジネスコンサルティングでもない。成長を促すコーチングでもない。かと言って、本格的に心をケアする病院を予約する状態でもない。カウンセリングは相性の良い人を見つけるまでが大変だという、そこまでの時間もお金もない。ただ誰かに聞いてほしい。話したい。そんな気持ちの時、人は何処にいけばいいのだろう?

モヤモヤを囲み対話する場をつくる試み

そんな問いに対して、今、21_21 DESIGN SIGHTで開催されてるドミニク・チェンさんディレクションのトランスレーションズ展で展示しているモヤモヤルームは生まれた。モヤモヤルームとは、行き場のないモヤモヤした複雑な思考や感情を抱えてる方の語りを、参加者みんなで聴く場所だ。聴くだけではなく、リアルタイムでグラフィックで描き出し、目に見えるかたちにする。描き出されたモヤモヤを参加者みんなで囲み対話をする空間を作る試みである。

参加者は、モヤモヤを抱えている方なら誰でも大歓迎だ。例えば、日常生活の中で何かしらの息苦しさや行き詰まりを感じている、転職や引っ越しなどのライフステージの変化で戸惑いを感じている…などなど。その人たちの声を、ファシリテーターの鈴木悠平さんが引き出し、グラフィックレコーダーの私がリアルタイムでビジュアルで描き出し、そのボードを囲み、みんなで対話をする。その2時間ほどのセッションはカメラマンの坂本麻人さんによって映像で記録される。最終的には、トランスレーションズ展の会場で、一連のプロセスを等身大のスクリーンで投影して、まるでモヤモヤルームに参加しているような体験ができる場所として展示する。細かい部分は綿密に設計せずに、この流れだけをはじめに決め、プロジェクトはスタートした。

モヤモヤを抱えている方はネットで募集を行った。参加者がモヤモヤを語る様子は、公の美術館で展示されることになる。秘めていた自分のモヤモヤを初対面の人に語ること、沢山の美術館の来館者の人に見られることは、とても勇気がいるだろう。モヤモヤを語る人が集まるか不安だったが、想定した人数以上の方が集まり、無事に7回のセッションは完了した。モヤモヤルームという試みを終えて、対話の場の研究として発見したことも沢山あるが、分析や総括にはまだ早い。ここでは、作家の清水淳子としての感じたままの思考の断片を書いてみる。

出したくても出せない、つい隠してしまうモヤモヤ

煙や湯気などが立ちこめるさま / 実体や原因などがはっきりしないさま / 心にわだかまりがあって、さっぱりしないさま。モヤモヤの意味を小学館 デジタル大辞泉で引くと、このような言葉が並ぶ。しかし、当日集まった参加者たちは、このイメージがひとつも当てはまらないほどサッパリと晴れやかな様子にみえた。そのため私は、もしかしたら初対面の人たちに話せるくらいの軽めのモヤモヤを持ってきてくれたのかな?と思ったが、セッションが始まり、鈴木さんが問いかけ、参加者が少しずつ語りだす言葉たちは、モヤモヤそのものだった。

人がモヤモヤを抱えているかなんて、日常生活の中で他者は実は気がつくことができないのかもしれない。実際、私だって色々なモヤモヤを抱えていることは、悟られないように気配を消しながら、仕事や生活をする。10代〜20代前半は抱えきれないモヤモヤを友人同士持ち寄って、夜通し話し合ったりもしていた。でも大人になるとみんな仕事も家庭もある。価値観も変わってくる。忙しい中、調整に調整を重ねて手に入れた久しぶりの自由な夜を、何年も凝り固まっている個人的なモヤモヤを話す時間で終わらせては申し訳ないという気持ちも出てくる。そんな時は、勢い余って仕事帰りの深夜のタクシー運転手さんに「あのですね、道の事と関係ないのですが、少しだけ聞いて欲しいんですけど…実は最近、私…」と話したくなってしまうけど、それも申し訳なくて話せない。

病からみえた風景

そういえば去年、私は乳がんの手術をした。その時に感じたモヤモヤ体験について話したい。治療の始まりに、病院で「治療期間中、あなたが、医師、看護師、技師、事務に対して協力してほしいことはどのようなことですか?」と書かれたアンケート用紙を渡された。もちろん自分の病や体に対して、沢山の疑問や不安を抱えていた。その上で協力してほしいことは山ほどあるような気がしたが、私が書いたのは「特になし」の4文字。…嘘ですね。本当はすごく色々あった。「大きな音が苦手」とか「アレルギーがあります」とか、そういった具体的なお願いは文字で書ける気がしたけれど、その時感じていたのは、もっと漠然とした沼のようなモヤモヤ。ザワザワした緊張感ある待合室で、限られた時間内で自分から凝り固まったモヤモヤを引き出し、スマートな文章に翻訳することは苦手な英作文以上に不可能だった。

その瞬間、大学で講師をするときに「何か質問があれば手を上げてくださいねー!」と言ってしまう自分、ビジネス会議の中で「何か意見がある方はいますかー?」と聞いてしまう自分のことを思い出した。そうやって相手に問いかける時、相手の声を聞いてるつもりでも、実は聞けることはないのかもしれない。相手の抱えてるモヤモヤによっては、答えられない。そんな聞き方を悪気なくしてしまうことは、世の中にも沢山あるように思う。今まさに、この病院の待合室がそう。どんなに文章で丁寧に問いかけられても、今の方法では、私は自分の出したい声なんて絶対に出せないよ! そう強く思いながらも、マスクの下に笑顔を作り「特になし」と書いた紙を看護師さんにそっと手渡す。

声を描くことは、声が届いたという合図

イライラした思春期というよりは、不安で泣きそうな子供のような気持ちを抱えながら、診察室に呼ばれた。だけど私は、モヤモヤルームの参加者たちと同じように、そんな様子は微塵も見せずにキリッと晴れやかに診察室に入る。主治医から今後の説明を色々聞く。どのような手術をするのか、主治医はA4の紙に慣れた手つきで美しい図を描きながら説明をしてくれる。私は、さっき感じてた自分の力では翻訳できなかったモヤモヤをキリッと伝えてみた。が、覚悟をもって話し始めたその言葉も、どういうわけか最後にはグチャッと潰れてとりとめのないものになってしまった。主治医は動揺せず冷静に聞き、私の声から、私が伝えたい意味を翻訳して、さっきとは違う不慣れな不器用な線で紙に書き込んだ。それはまぎれもなく私の声だった。その瞬間、私は大きな安心に包まれた。自分の中にあったモヤモヤの輪郭がぼんやり見えたような気がした。

その時、モヤモヤルームで行ったグラフィックレコーディングの意味が初めてわかったような気がした。完成されたグラフィックレコードは、私が参加者の抱えるモヤモヤを描き出す仕組みにみえる。しかし実はグラフィックレコーダーである私が何を聴いているかが描き出されるのがグラフィックレコードなのだ。つまり参加者からは「自分の声がどのくらい場に届いているのか?」ということが視える装置として機能する。

人生の中でもかなり不安定な瞬間に、描かれる側からの視点を体験したことで、その場でリアルタイムに人の声を描くことの奥深い意味と可能性があることに気がついた。ゲシュタルトの法則(ものをまとまりとして知覚する人の認知的傾向のこと)を駆使すれば必ず生まれる「わかりやすい・伝わりやすい」ということ以上にもっと根源的で重要なこと。相手が自分の声を聴いたという証。自分の声が相手に届いたという実感。自分が声を発するたびに動いたり、自分の沈黙でとまるペンは、風で動く船のよう。そのペンをもっと前に進めたいと思う気持ちが、モヤモヤに沈み込みそうな声を出す力を与えてくれる。

聴くを描くことで広がる空間

抱えきれないモヤモヤを抱えてる人が求めてるのは、無限に書ける自由記述のアンケートではない。耳で音声を受動的にキャッチして聞くことだけでもない。モヤモヤを抱える様子を感じ取って、どんな背景や気持ちがあるのかを理解しようと全身を傾けて、聴いてほしいのだ。さらに、できたら、そのあとにゆっくりと「あなたはなぜ、そう思ったのですか」「それはどういう意味ですか」と、真摯に訊き返して、もっと本当の声を引き出してほしいのだろう。聞くだけでなく、聴いてほしい。そして訊いてほしい。生物としての聴力機能でなく、人間が人として全身で発揮できる奥深い「きく」の力。

「この展示は私たちがモヤモヤを淡々と眺めた時間と空間の記録であり追体験だ。この展示を見ているうちに、きっとあなたの中のモヤモヤが何かしら声を上げるように思う。どんな声なのか?そこにこの展示の意味があるかもしれない。」これは展示が始まる時に書いた私のステートメント文。この文章を読んでいるあなたのモヤモヤは今どんな姿をしてるだろうか?

ネットは声を繋げすぎている?

2021年、コロナ禍はまだ続く。先が見えない時代の中で、今まで以上に世界中の人が過去に体験したことのない姿のモヤモヤを抱えているはずだ。人と人の距離が離れる中で、少しでも気持ちを寄せようと、手のひらのSNSから全世界に自分のモヤモヤを投げかける人も少なくないだろう。またそのモヤモヤを受け取ることで自分の気持ちを整理する人も多いかもしれない。体と体を近づけて、本当の声と声を交わすことができない時代の中で、インターネットは私たちの代わりの声となって世界中を駆け巡り繋いでくれている。

体から発する声を増幅するために、人類はこの1000年で様々なメディアを開発し、手に入れてきた。印刷、写真、ラジオ、電話、テレビ…、そして、インターネット。人と人が直接会うことができなくても、私たちの声を物理的に塞ぐことはもうできない。様々なメディアを通して私たちは声を響かせ合う。特にインターネットはどんな気持ちも平等に繋ぐ強力な接着剤である。しかしその裏側には、あらゆる種類の感情を繋げてしまう性質と、その中で違った種類の情報は決して繋げないという強力ゆえに極端な性質を持つように思う。

ネットは、私たちの気持ちを繋ぐためにはどんなカタチにも変形するが、そのカタチが他の思考や気持ちと繋がれるとは限らない。それはまるで、レゴと竹ヒゴという異素材で、ひとつのお城を作るような作業だ。一つ一つの素材はよく繋がるが、それぞれの素材が重なる部分では大きなストレスがかかる。レゴを繫げるときには、あらゆるパーツが揃っている。しかし竹ヒゴを繋ぎ合わせるとなると全く違ったアプローチが必要となる。それは竹ヒゴ側から見ても同じだ。いつも通りに編み込むことができずに、竹ヒゴはレゴの表面を傷つけることになるかもしれない。

最古のメディアに眠るヒント

そういったインターネットでのすれ違いの瞬間に、誰かのモヤモヤが自分の持つモヤモヤに絡みつき大きくなり、私たちのこころの中を埋めていくことがある。1000年の人類の叡智を注ぎ込んだあらゆるメディアの力も虚しく、こころの風景は、じわじわと暗く侵食されていく。そんな時に、何ができるのか?耐えるしかないのか?

そこでひとつの提案。身近な人の声を聞こう、聴こう、訊こう。その時に、できたらペンを持ってみよう。少しでいいので、自分が聴いた相手の言葉をゆっくり紙に描いてみよう。遠くに旅ができない毎日。机の上のペンと紙だけでできる旅をしよう。聴くを描くことで視える世界に出かけてみよう。

今日の様々な技術が生まれる遥か何万年前から存在していた声。洞窟に刻まれた絵。これらは長い歴史の中で最古のメディア空間とも言える。モヤモヤルームで感じた新しい可能性の原点はそういった風景の中に既にあったのかもしれない。今の情報環境を窮屈に感じて疲れているとしたら、一度ネットから離れて、目の前の相手に声をかけること、その声に全身を傾けること。このシンプルな体験に身を浸すことにヒントがあるのかもしれない。


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