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コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

アーツ・オン・ザ・グローブ:コロナ禍と向き合う芸術文化

本シリーズでは、欧米や近隣諸国において芸術文化がいかに新型コロナウイルスと向き合ってきたのかをお伝えします。

2021/12/28

CASE05
ドイツ:ドイツのコロナ禍文化政策をまなざすことで見えてくる日本の「これから」(後編)

獨協大学准教授
秋野有紀

シリーズ「アーツ・オン・ザ・グローブ」

本シリーズ「アーツ・オン・ザ・グローブ」では、欧米や近隣諸国において芸術文化がいかに新型コロナウイルスと向き合ってきたのかをお伝えします。日本、そして東京における芸術文化の現状を理解し、新しいアイデアを得るための一助となれば幸いです。

*企画協力・監修に光岡寿郎氏(東京経済大学コミュニケーション学部教授)を迎え、全6回(予定)の連載でお送りいたします。

> ドイツのコロナ禍文化政策をまなざすことで見えてくる日本の「これから」(前編)はこちら

ドイツのコロナ禍文化支援への注目──その因数分解

ドイツの文化支援に関する不正確な情報が、等身大以上の理想的なイメージを拡散した点は否めない ※1。とはいえ、コロナ禍に対処するドイツの文化政策には、それらを差し引いても、日本で好意的にまなざされることとなった側面が、もうひとつあった。文化と民主社会を絡めて話したグリュッタースの数々の発言である。

※1:前編でも触れたが、2021年12月9日に神戸大学で講演をしたアンネグレート・ベルクマン東京大学特任准教授は、フリーランスの中でも、一つの作品のための一時的な雇用契約を複数掛け持ちするような最も生活基盤の脆弱な歌手、音楽家、俳優、技術者が、全ての支援枠組みから取り残されていた問題を指摘している。ベルクマン教授によれば、彼らの大半は、色々な公演のための複数の契約期間が半年以上になる時点で、常勤雇用とみなされる。そのために、もはや自営業の補助は申請できず、また事実上、常勤雇用者でもないためにその枠の補助も受けられず、2021年の追加モジュール(前編、表1)に至るまで、全ての隙間をすり抜けてしまったという。

科学的合理主義のイメージが強いドイツだが、他方で「哲学の国ドイツ」や「イノベーションの国ドイツ」も自称する。ゆえに、理想主義的な要素が政策に含まれる場面も少なくない。表面的な華やかさはないが、地道に理想に向かって尽力し、虚飾を弄ばない質実剛健な国──こうした国家像を裏切ることなく、政治とは、実務と理想の両輪からなることを、ドイツの文化政策はコロナ禍対応においても、安定的に示し続けた。この点は、何かを伝えるときに明確に言葉で表現し尽くす必要のあるロー・コンテクストの文化圏の政治家特有の、レトリックに富む演説スタイルと無縁ではないし、現実には口だけの政治家では困るのだが、今回はこのバランスこそが、日本で評価されたものの一つだった。

他方であの現象は、ドイツの実像への関心というよりはむしろ、日本の文化創造関係者が求めていた、危機の時代における文化政策の「理想像」が投影されたものだったようにも思う。「喝采」はとりわけ、社会における芸術文化の意義を語った場面で送られている。この傾向が反射するのは、表現や創造活動への理解と、それらがもつ意義についての考えを、社会により深めてほしいと渇望している今日の日本の文化創造産業従事者の姿である。

(1)「文化は、民主主義の根幹」の真意

ドイツの政治家たちは、文化の個人的意義と社会的意義とを十分に理解しているというメッセージを発し続けた。彼女たちは、制限を要請する際は同時に、いかに個人そして社会における文化の多様な意義を認識しているかを、言葉を尽くして表明し、それにより、業界軽視ではないという安心感を与えようとした。支援と信念、どちらが欠けても、非常時の政治の力強さとしては、不十分だった。後編は、この理念的側面をみていこう。

日本で注目を集めたグリュッタースの発言には、前編で挙げたものの他に、民主社会の基礎に文化や芸術があるという信念を強調するものもあった。2020年4月頃からグリュッタースは、文化創造産業支援の意義を語る際に、表現は少し変えつつも、同じ意味内容のメッセージをメディアで繰り返していた。5月のある記事は、ゲーテ・インスティトゥートが全文を日本語に翻訳し、当時ドイツの文化支援が注目を集めていたこともあって、これ以降、文化関係以外の人々にも広く知られるようになった。彼女はこの姿勢をNew Start Cultureが開始された7月には「文化は我々の民主主義の根幹」と表現している ※2

※2:https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/wertschaetzung-kultur-1768662

「税制上の優遇措置やドイツ政府が出資している芸術家社会保険基金をちょっと考えてみてください。この点において、民主主義を安定させ、必要な批判的改良を行う文化の役割は、国家にも住民にも認められているのです。」 ※3
「たしかに経済的に見て文化創造セクターは、重要な分野です。けれども我々の民主主義にとってはなおのこと、劇場・映画館・オペラ座その他の文化的な場の閉鎖が、長期的に重くのしかかってきうるのです。」
「〔芸術文化が接触制限や渡航制限の影響を大きく受ける分野であるために──筆者注〕批判的な修正を促し、社会の自己内省のメディアとなり、民主的に議論し理解する文化を醸成する力である芸術が、姿を消しています──それも、少し前までは考えられないようなスケールで、諸々の民主的な自由権が一時的に制限されなければならず、かつてないほど未来が不確かなこの時代に。」
「民主主義は、たとえ健全な状態にあっても、常に呼吸を必要とします。芸術の自由は、民主主義に、息絶えないための酸素を提供するのです。」 ※4
「我々は、ミュージアム、劇場、コンサート・ホールを文化の場としてのみ必要とするのではありません。そうではなく、そこで他の人たちと集まり語り合う社会的な場としても必要としているのです。」※5

※3:https://www.sueddeutsche.de/kultur/monika-gruetters-kultur-staatsministerin-corona-1.4870913
※4:https://www.bundesregierung.de/breg-de/bundesregierung/staatsministerin-fuer-kultur-und-medien/aktuelles/auch-die-demokratie-braucht-beatmung-warum-kunst-gerade-in-der-krise-unverzichtbar-ist-175203(全訳は、https://www.goethe.de/ins/jp/ja/kul/mag/21930923.htmlに掲載されている)。
※5:https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/wertschaetzung-kultur-1768662

文化を民主主義の根幹と表現するこうした姿勢には、文化とコロナ禍をめぐる一連の政治家の言説の中でも、もっとも「ドイツの文化政策らしさ」が表れていた。実は、文化と民主主義についてのこうした見解は、コロナ禍を契機とする目新しいものではない。「万人のための、万人による、万人の文化(Culture for All, by All, of All)」が合言葉となった1970年代の「新しい文化政策」以来、ドイツの文化政策の存在理由であり、芸術文化の本質的で社会的な意義を理解する際に立ち返るのは、常にこの理解である。

コロナ禍前に日本でこの点を紹介すると、「ドイツの理想主義」「論の飛躍」あるいは、「個人」の「趣味嗜好」に過ぎない芸術文化と、民主主義という「公」の「政治」に属するものを結びつけて語るなんて、ドイツは芸術文化へのリスペクトがすごい!という両極の反応があった。けれども理解の前提が、少し異なっているように感じる。

芸術や文化が個人に及ぼす様々な力については、今日あまり異論は出ない。議論となるのは、政策が、他に使えるかもしれないリソースを制限する機会費用を払ってまで、なぜ文化を支援するのかというときだ。その際に、個人的意義を述べるのみでは不十分だ。(文化資本や経験・理解をすでに蓄積していると言う意味での)恵まれた層のための支援だ、という懐疑論に太刀打ちできない。国や社会のアイデンティティ形成や威光的な表象という根拠も、芸術をプロパガンダへの奉仕の道具とした過去を持つドイツでは、あまり好まれない。そのため、個々人の平等や自由を尊重した上での「社会的意義」を言語化する必要が生じる。

【表3】文化領域=規範醸成の自律領域という理解 ※6

P
政治領域
(法律/合法性)
E
経済領域
(貨幣/効率性)
S
社会領域
(伝統・慣習/規範性)
C
文化領域
(言語・芸術/対話性)
※6:秋野有紀『文化国家と文化的生存配慮』美学出版、2019年、p. 267以下。

表3は、「領域の自律」を表すフレームだ。ドイツの政策学の分野でいくつかバリエーションがあるが、私は文化政策を考える際には、このPESCのように分類するとドイツの思考回路がよく理解できると思っている。社会において、芸術文化に結晶化される形で発信される「表現」が自由に活動できる環境をなぜ醸成し、維持しなければならないのか。そしてその領域を支援する際にも、「評価」の目が、なぜ他の領域の「合理性」の無批判な援用であってはならないのか。個別具体な作品や事案を前にすると主観に傾きがちとなる議論を、俯瞰して考える手がかりをくれる。

この図は、人間の生きる世界を4つの自律領域に区分する。政治、経済、社会、文化だ。それぞれが自律的に動く領域で、そこでの動きを仲介する「メディア(媒体)」と「合理性」の基準も、自ずと異なる。

政治領域の「メディア」は法律、そこでの合理性は、適法性。経済領域の「メディア」は貨幣で、合理性は効率性で判断される。社会領域のメディアは、伝統・慣習(宗教・戒律・礼儀を含む)で、ここでの合理性は、規範性にある。「郷に入っては郷に従え」という表現は、「当地の規範にいち早く気づいて従えばトラブルが少ないよ」という忠告で、社会領域の合理性が規範に拠って立っていることを物語っている。

では、文化領域は? 文化領域のメディアは、言語や学問や芸術だ。そしてこの領域の合理性は、対話性である。対「話」は一般的には、言葉による媒介を想起させる。だが、ここでの「対話」は、言語表現に限らない。人間の「考え」「思想」「思い」はたしかに、言葉を編めば、文学や演劇、学問や映画となる ※7。けれども人間の表現方法はもっと豊かだ。描くこと、踊ること、動くこと、歌うこと、奏でること、見せることでも自分の「思い」を表に現す。分かってもらおうとするし、分かろうとする。そうした相互交流を「対話性」と呼ぶ。

※7:やや特殊な例ではあるが、オペラ歌手のエリーナ・ガランチャは、2020年1月にルネ・フレミングが主催したカーネギーホールの若手育成の授業で、色聴の説明をしていた。言葉、音、色を異なる種類であるとする分け方も、実は恣意的に過ぎる見方なのかもしれない。

文化的に多様な人々の共同生活が日常にあるドイツで理念的にCの「文化領域」として想定されているのは、ロゴス中心主義(母語話者か否か)、経済ヒエラルキー(貧富・格差)、社会的帰属(マイノリティか否か)といった尺度を取りはらい、アーレントのいう「何」であるかではなく「誰」であるかが問われるような交流の空間が拓かれる場であることだ ※8。こうした相互の考えの交流の「間」にあって、人は主体性を獲得し、不断に判断力を養っていく。そうして培われる能力が、民主主義をとる社会を支えてゆく。

※8:アウグスティヌスのこの区分をハンナ・アーレントは『人間の条件』で継承している。ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』(筑摩書房、2006年)、p. 291以下。

批判力や判断力が奪われた状態のままの住民を、《国家対市民》という単純な二項対立に立ち、「民主主義のアリバイ」のように動員する行為の危険性は、たとえナチ時代が終わろうとも、民主社会には常につきまとう。文化領域をそうした行為への「防波堤」として位置づける理解は、近代国民国家の黎明期に「文化」に大きな期待を寄せ、《文化国家》を掲げつつも、第一次大戦へと突き進み、その後さらにはナチスを生んだこの国の歴史への反省と分かちがたく結びついている。機能不全に陥った民主主義を、もう一度、文化を通じたひとりひとりの人格の自由な発展の地点からやり直そうとした現代ドイツ。文化政策を再構築する過程で考え抜き、いまや中道右派左派の政党を問わず、文化を語る際に政治家たちが依拠する最大の理論的基盤に、文化が醸成するこうした批判的判断力への期待と信頼がある。

肝心なのは、文化領域を社会領域と一緒にし、どちらかをどちらかのサブカテゴリーと捉えるのではなく、文化も、政治や経済や社会と対等の自律領域だと認識する理解にある(これはl’art pour l’artと同義ではない)。そう考えると、合法性や、経済的効率性や、規範や因習という他の領域の自律の基準を、文化領域にも無批判に援用して評価を下すのは、ふさわしくないことが分かる。もちろん現実には、それぞれが分断されているわけではないし、互いに影響しあって世界は形づくられている。だからこそ境界線上でお互いに譲れず、摩擦は起こる。それでもあえて理想を追求する政治を、ドイツは実務面での持ち前の合理主義を発揮することで構築してしまう。

原則的には、この領域が、空気を読ま/めない態度を守り続けることでこそ、社会に残る不合理な法律・規則とその成立、歯車のように人間を扱う経済一辺倒の状況、合意形成の過程に参加したわけでもないのに従ってきた息の詰まるような因習には、「ちょっと立ち止まって一緒に一回考えてみよう」と疑問を投げかけられる世の中であり続けられる。ヴォネガットのいう「炭鉱のカナリア」の役目を、芸術家や学者は担っている。慣れ親しんだものに「ちょっと」と言ってくるので面倒くさい輩かもしれない。けれどもそれこそが表現者の社会的役割で、そこからみんなの〈自由〉が少しずつ拓かれてゆく。

「耕作」や「世話、手入れ」を意味内容とするラテン語のculturaを語源に持つ文化領域が、法律や社会規範として「固まる」前の規範「醸成」の領域であり、現状を批判的な議論に付すからこそ、文化は「民主主義の根幹」という理解が成立する。この理解が根底にあるからこそ、たとえ物理的には対面型接触による交流の場が閉ざされようとも、そうした対話の領域を窒息させないことこそが我々の社会全体の要諦であるという姿勢が、支援の大義として堂々と表明されたのである。

文化政策は、技巧を凝らして完成された優れた芸術作品を守り、継承する保護・修復士の一面を持つ。と同時に、表現領域のこうした自律を守るために環境整備をしている民主社会の(非力な)大工でもある。経済的充足の「次に」文化的充足という段階理論に決定的に欠けているのは、民主社会に必要な諸要素の理解であり、そこで露わになるのは、芸術文化や表現の社会的意義に対する理解の浅さである。

(2)薄氷を踏む思いでのロックダウン

それゆえに文化活動に停止を求めることは──特にこうした理解を基礎としてきたドイツの政治家にとっては──政治生命に関わった。グリュッタースもメルケルも言葉を尽くして慎重に事を運んだ。けれども、日本で喝采を浴びていたグリュッタースも、すでに2020年4月には前編で述べたように、ドイツ本国では針の筵だった。

忌み嫌われるあの言葉が、投げつけられた──政治家が「職業禁止(Berufsverbot)」をしている、と。文化活動の停止が、ナチ時代や旧東ドイツ時代の独裁政権による反体制的芸術家への「弾圧」になぞらえられたのだ。他にも、政治によってもたらされた失業、政治家に強制加入させられた失業保険など、ジャーナリズムやSNS上では様々な揶揄がなされた。人命が関わる感染症の拡大防止に、人流を抑止するくらいしか手だてがなかったあのさなかで、様々な領域の言い分に耳を貸しつつ、日夜対応に奔走する中で投げつけられたこの言葉。民主主義の尊重を基調としてきた政治家たちにとって、悔しさと、悲しみと、無力感がわきあがる瞬間だったに違いない。

(3)ドイツ建国史上最大の文化イベントのための特別基金

メルケルは、2021年12月8日、16年の統治に幕をおろし政界を引退した。2021年4月末に、彼女はクリエイティブ・ワーカーたちとのオンライン対話集会を開いている。さまざまな質問や陳情を限られた時間内で次々とさばき、一国の首相がこれほど細かい点まで把握しているのかと驚くほどに的確な助成事業を紹介してさえいた。文化や芸術の意義を語る彼女の言葉には、これまでの文化経験から出る個人的なあたたかさがこもっていて、その実直な誠実さが、出席者たちを安心させたように見えた。

そしてドイツ政府は、2021年5月26日に建国史上最大の25億ユーロ(1ユーロ=130円換算で、3250億円)の文化イベントのための特別基金を閣議決定した(6月15日から登録受付開始、前編、表1)。この基金は、イベントの再開を促し、今後の計画を立てやすくするために、イベント事業者を対象として創設された。イベントが企画されれば、仕事を失ったクリエイティブ・ワーカーにも仕事が生まれ、間接的な支援に繋がる。対象は、チケット販売を行い、ドイツで行われる文化イベントで、以下の二本柱からなる。
①観客の参加可能人数が2000名以下のイベントには、感染症対策のために座席数を減らさざるを得ないことで生じた損失を補填する経済支援を行う。すなわち、チケット売上補助である。(段階的人数制限措置があったため、7月中の上限は500人。チケット売上枚数や会場のキャパシティに応じ、額は個別に計算。イベント一件あたり、最大約1300万円まで)。
②観客の参加可能人数が2000名を超え、ツアーのロジスティクスやアーティスト・会場の手配等、前もって多くのことを計画するためにこの状況下では高いリスクとなる大規模イベント(2021年9月以後に企画されるもの)は、キャンセルあるいは延期により生じる費用の最大90%まで(人件費、会場費、アーティストのギャラ等、列挙されている費目にあるものが対象)がカバーされる。それにより、実質的にはイベント一件あたりの損害補償額が最大約10億円までのキャンセル保険として機能するという(前者①の中小規模イベントにも、キャンセル保険は適用可能で、事前に登録している場合に限り、イベント費用の最大50%までを受け取ることができる)。

つまり、キャンセル・延期・人数制限により失う、通常なら回収が見込めたはずの費用を国がカバーすることで、費用と売上見込を比較して主催者がやむを得ずイベントを中止する選択をしないように助ける意図がある(平時は民間保険会社によるイベント保険があるが、コロナ禍に由来するキャンセルはそうした保険ではカバーされない。あくまで制限措置がなければ見込めたであろう収入とイベントにかかる費用の「ギャップ」を埋める点に主眼を置き、人数制限下で実施された場合、関連売上分はキャンセルあるいは延期によって生じた費用から引く)。
資金はドイツ政府が拠出し、運営・執行は州レベルで行うことが、すでに5月に州の文化大臣間で合意されていた。ドイツ文化評議会もこの基金の運営委員会の一員となっている。イベント事業者は、オンライン申請プラットフォーム上に、日程や費用計画を予め登録する。このプラットフォームは全国統一とされ、ハンブルク都市州が軌道に乗せた。質問・相談のための全国電話ホットラインは、ノルトライン=ヴェストファーレン州が用意した。※9

※9:https://www.bundesfinanzministerium.de/Content/DE/Pressemitteilungen/Finanzpolitik/2021/05/2021-05-26-sonderfonds-kulturveranstaltungen.html
https://www.sonderfonds-kulturveranstaltungen.de

非常時においても、自由な対話を維持し続ける領域の存続が、民主社会には必要不可欠である。──コロナ禍におけるドイツの文化政策の最大の特長は、この根幹だけは、政治家が共通理解として持ち続け、それを忘れていないことを率先して国内外に示したことにある。

そうして期せずして、ソフトパワー的な意味においても、芸術文化の支援に手厚い、好ましい国家というイメージまで獲得した ※10。芸術や学問などの表現を、経済的に自立できないからといって些末なこととして扱ったり、少数意見だからといって無視したり、今の時代のトレンドではないからといって将来世代に残さずに処分してしまうことをしない「謙虚さ」と「慎重さ」と「頑固さ」の産物だと言える。そうした懐の深さが、潰すには規模が大きすぎるとまで言わしめる文化創造産業を育んできたこの国の文化創造環境の土壌にはある。

※10:さらにゲーテ・インスティトゥートが2020年4月から2021年5月まで無償提供してきたデジタル・文化プラットフォーム《Kulturama》は、自国文化を発信するためものではなく、「国際的な文化をあなたのリビングルームへ」をモットーに、国籍・居住地を問わず、世界のアーティスト、クリエイター等に、自身のイベントや作品を投稿する場を提供し、そのコンセプトが世界の着目を集めた。


BKMの執務室がある首相府(筆者撮影)
メルケル政権下では、他省の大臣が首相に会うためにアポをとらなければならないのに対し、グリュッタース(CDU)は首相府にいて立ち話で相談できるため、巨大な省に囲まれて存在感を発揮できない文化省を持つよりも、メリットがあると言われていた(2019年の筆者の聞き取りによる)。2021年12月8日に発足した新政権では、緑の党のクラウディア・ロートがBKMに、財務大臣として「バズーカ砲」の成立に尽力したオーラフ・ショルツ(SPD)が首相に就任。文化省創設は行わず、連邦政府の委任官である国務大臣級のBKMのポジションが存続する。ドイツの実質的な憲法にあたるボン基本法に公的文化振興を明文化する議論がコロナ禍で再燃し、文化分野にも適用する最低賃金保障の議論とともに新政権で検討する予定。

危機の時代のドイツの文化政策をまなざすことで、見えてくるもの

日本とドイツでは、文化創造産業の範囲も、都市封鎖に伴う活動制限の回数や様態も異なり、支援額の単純な比較にあまり意味は無い。また前編で述べたように、ドイツの支援が非の打ち所もないものであったかのように無批判に理想化することもできない。(前編で述べたように、2020年4月の即時支援は、固定費の支払い能力がコロナ禍によって損なわれることに対する支援だった。それゆえ、実際には無条件ではなく、倒産危機や流動性のボトルネックの有無が重視された。即時支援にも後日、厳密な監査があるとされていたため、不正受給に気づいた場合や、受け取りすぎていた場合は、理由を記入することなく自主的に返納することができた。今後は、州主体の監査により、返還請求も行われると報じられている)。ただ、現在進行形の困難や、政治が把握している課題、検討している対応を現状報告として逐一国民にも広く伝える中で、ドイツの文化政策は、実務と理念のバランス感覚を前景化させた。この点は、危機において日本でも求められていた政治の信頼性と安心感を端的に体現していた。それゆえに、文化支援をめぐるドイツの政治家の一挙手一投足に、かつてないほど広い層から熱い関心が寄せられた。

ドイツの一連の動きを実務と理念の両面から観察することは、表現者が自由に表現できる環境が民主政治を間接的に鍛え、健全に機能させてゆくための不可欠な要素であること。そしてまた文化支援は、表現者やその業界の者のみが恩恵を受ける閉鎖的な「業界支援」ではなく、民主的な市民社会の根幹に関わる決定的に重要な意義を本来は持っていることを、日本の我々にも思い出させてくれる。

冒頭で「ものの豊かさから心の豊かさへ」が日本社会の「呪縛」になったと述べた。ステップ・バイ・ステップの図式や「心」と結びつける表現は、文化とは、経済的な余裕があるときにのみ享受される「贅沢品」であり、個人的意義しかないものであるかのような一面的な理解を、いやおうなしに国民に内面化させる。

パンデミックにおけるドイツの文化政策をめぐる日本社会の一連の「喧騒」は、この図式化の呪縛に絡められることなく、表現とその自由とが民主社会の根幹として社会全体に有している意義を、日本社会が今こそ再確認する必要を我々に投げかけている。それは、様々な時代に、様々な地域が体験してきたあの「社会全体のために奉仕する文化」といった、同調圧力で押し固める鋼の理論とは、もちろん異なる地平を目指すものだ。ドイツの政治家たちの発言はその意味で、日本にとって、他人事でも、理想論でもない。

ここに可視化された現象の意味を立ち止まって考えることは、決して無意味ではない。「グリュッタース旋風」に始まる一連の現象に、どのような「理想像」が投影され、表明されていたのか。文化政策の存在理由は何か。この背景を読み解く過程には、むしろ日本の文化政策の「これから」を考える素材が、ぎゅっとつまっている。

> ドイツのコロナ禍文化政策をまなざすことで見えてくる日本の「これから」(前編)はこちら


【Editorial Viewpoints】

今回の論考については、論点を共有する以前に、ただその情報量に圧倒される。したがって、読者の皆さんには、まず是非隅々まで読んで頂くことを編集担当からはお願いしたい。
そのうえで、コロナ禍の芸術文化を考えるうえでの重要な論点として、後編で言及されている「芸術文化にかかる機会費用」を挙げておきたい。これは言い換えれば、なぜ教育や医療にも投下できる経済的、人的資本を敢えて芸術文化に投じなければならないのかという問いである。秋野氏は、私たちを取り巻く世界を4つの自律的なサブシステム(「政治」「経済」「社会」「文化」)に分類し、それぞれが異なる機能を果たしているからこそ、その一領域を成す芸術には資本が投下されるべき根拠があると説明している。一方で、恐らく日本も含めむしろ数多くの場面で(理不尽にも)求められてきたことは、芸術の政治的、経済的有用性を説得することではなかっただろうか。この芸術文化にかかる機会費用という論点は、文化政策学にとっても芸術文化の社会学にとっても本質的な問いであり、今回のドイツの事例からは、コロナ禍という苦境ゆえに、平時以上にこのジレンマと向き合わざるを得なかったことが分かる(光岡)。


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