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コラム & インタビュー

アーツカウンシル東京のカウンシルボード委員や有識者などによる様々な切り口から芸術文化について考察したコラムや、インタビューを紹介します。

アーツ・オン・ザ・グローブ:コロナ禍と向き合う芸術文化

本シリーズでは、欧米や近隣諸国において芸術文化がいかに新型コロナウイルスと向き合ってきたのかをお伝えします。

2022/04/01

CASE06
リフレクション:コロナ禍の先に文化の「土壌」を耕すために(前編)

東京大学教授、東京大学出版会理事長
吉見俊哉

シリーズ「アーツ・オン・ザ・グローブ」

本シリーズ「アーツ・オン・ザ・グローブ」では、欧米や近隣諸国において芸術文化がいかに新型コロナウイルスと向き合ってきたのかをお伝えします。日本、そして東京における芸術文化の現状を理解し、新しいアイデアを得るための一助となれば幸いです。

*企画協力・監修に光岡寿郎氏(東京経済大学コミュニケーション学部教授)を迎え、全6回の連載でお送りいたします。


(左)光岡寿郎氏(右)吉見俊哉氏

さまざまな専門家の寄稿を通じて、コロナ禍における各国の文化芸術の動向を紹介してきたシリーズ「アーツ・オン・ザ・グローブ」。その最終回として、社会学者で東京大学大学院情報学環教授の吉見俊哉氏をゲストに迎え、この企画の監修者を務める東京経済大学コミュニケーション学部教授の光岡寿郎氏を聞き手にお話を伺った。

吉見氏は、コロナ禍が浮き彫りにした日本の状況を、文化芸術の社会的位置づけの脆弱さと「職能」意識の欠如だと指摘。さらに、接触や交流を禁じる「反芸術的」な状況の先では、「共にいる」ことを巡る思考が重要になるとしたうえで、日本の課題を、文化の「土壌」を耕す意識の構築にあると話した。その語りは、危機の時代にあって、幅広い射程で芸術や文化の根本的なあり方を考えさせてくれる。

聞き手:光岡寿郎
編集・執筆:杉原環樹
撮影:鈴木穣蔵

コロナ禍が明らかにした、日本社会にとっての「文化」

光岡:これまでこのシリーズでは、アメリカ、オーストラリア、台湾、香港、ドイツと、いくつかの国や地域のコロナ禍における取り組みを紹介してきました。今回、吉見先生には事前にそれらをお読みいただいていますが、そのなかから特に注目された事例についてまずはお話しいただけますでしょうか。

吉見:連載を一通り読ませていただいて、私としてはとりわけ秋野有紀さん(獨協大学准教授)が書かれたドイツの状況を巡る2回の論考(CASE05「ドイツ:ドイツのコロナ禍文化政策をまなざすことで見えてくる日本の『これから』」前編後編)がとても勉強になりました。このなかで秋野さんは、日本でも注目を集めたコロナ禍におけるドイツの文化芸術支援について、日本との対応速度や金額の違いに注目する議論は非本質的だとし、むしろ「その背景にある『社会』と『文化』の関係をめぐる、文化政策の存在意義に対する両国の理解の違い」にこそ目を向けるべきだと指摘します。つまり、社会における文化芸術の位置付けの根本的な違いが、今回の対応の大きな違いとして現れていたというわけですね。

私の理解も加えながら秋野さんの議論を少しなぞると、彼女は、社会が文化芸術の必要を語る際の視点をいくつか挙げます。まずは「個人的意義」です。生活が経済的にある程度成り立つと、より豊かな生活や心のために文化が必要だという議論があります。しかしこれは所詮、文化を文化資本の所有層の特権として捉えているに過ぎず、コロナのような危機を前になお文化が必要だと訴えるには説得力がない。またもうひとつ、例えば日本で「文化はソフトパワー」だと言われるように、文化芸術は国の経済力を伸ばす重要なコンテンツで、国のアイデンティティを支えるものだという言い方がある。しかし、そもそも芸術をプロパガンダ利用した過去を持つドイツの事情もさることながら、この理屈がコロナ禍で支えにならないのは当然で、社会や経済自体が休止するなか、文化支援はその次という話にしかならない。

秋野さんはそれに対して、ドイツの考え方はそのどちらでもなく、「文化こそが民主主義を支える」というものだというわけですね。つまり、多様な意見を自由に表現し合える文化こそが、民主主義、あるいは人々のコモンズの根幹を支えるという認識がドイツでは共有されている、と。

秋野さんが論で繰り返し引用しているドイツのモニカ・グリュッタース連邦文化大臣の声明を読むと、彼女は芸術家を、「何事にも疑問を持ち、想像力と旺盛な実験的精神に満ち、矛盾を突き挑発することで、公共の言説に活気を与え、民主主義を政治的な無気力感や全体主義的への偏向から守る人々」と表現しています。これは文化そのものの定義ですよね。同様の声明はアンゲラ・メルケル首相からも聞かれました。一方で日本はこの100分の1のことも文化について言えなかった。これは程度の差というより、そもそも日本の行政が守ろうとしてきた「文化」とは何かという、より根本的な問題に関わるものでしょう。

もうひとつ私が気になったのは、欧州などでは劇場や美術館を救うことと同様にフリーランスの芸術家の支援を重要視したのに対し、日本でその動きがほとんどなかったこと。その理由を考えると、単に日本に文化支援の考え方がなかったからではないと思います。そうではなく、この国には「職能」そのものがないんです。

これは「芸術家」だけに限らない問題です。例えば「大学教授」は、日本では職能ではなく「雇用形態」、「職」そのものです。知識人、図書館司書、編集者、キュレーターなどといった職能が、驚くべきことに日本にはないんです。これが日本が縦割り社会から脱出できない要点でもありますが、人間の価値が職能でほとんど規定されない国だから、カテゴリーがなく、個人の「芸術家」を救うことが難しくなったのだと思います。

「職能」の確立と把握が、適切な支援を可能にする

吉見:では、日本において優れた芸術支援に関する動きがなかったかと言えば、私が関心を持っている演劇の領域で例外的に頑張ったのは、野田秀樹さんや福井健策さんらが文化庁の支援を受けて立ち上げ、私も少しお手伝いさせていただいた「緊急事態舞台芸術ネットワーク」(以下、JPASN)でした。

前提として、一口に「演劇人」と言っても、その実体は有象無象です。ただ、基本的に稽古場、舞台で生きているから、書類手続きが苦手な人も多く、労働形態もバラバラ。組織的な論理を当てはめるとこぼれ落ちる人が続出します。そうしたなか、福井さんたちの試みが良かったのは、寺田倉庫と組んで行った「緊急舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業」という取り組みにおいて、演劇公演のデジタルアーカイブ化と支援をセットにしたこと。つまり、劇団の所有する映像コンテンツを提出してもらい、それを寺田倉庫が媒介して早稲田大学の演劇博物館に収蔵、そして「Japan Digital Theatre Archives」というサイトで検索可能にした。コンテンツの多い劇団は相応の仕事をしてきたわけだし、一定の成果を挙げていると受け取れる。また、このアーカイブが公開されることで、そこから収益につながる活動が広がるかもしれません。活動の蓄積の再活用と支援をうまく結びつけた、優れた取り組みだと思います。

ただ、僕は美術などの状況は詳しくないので、今日はそのお話も聞ければと思っていました。

光岡:大きな状況や問題は共有しつつ、演劇と美術の大きな違いは集団性だと思います。日本のコロナ禍の助成は基本的に団体に対して行われているわけですが、演劇は大半が小さな劇団だとしても、受け皿になる団体が存在します。これに対して、美術は個人で活動している人がかなり多い。その層をどのようにサポートするのかは結構苦労したはずですし、先の職能の話とも関係しますが、そのサポートにあたるアートマネージャーの仕事に脚光が当たったのが、この2年間だったという気がします。

職能の問題は僕も非常に重要だと感じていて、若い頃に海外事例を調べていたことがあります。例えば、オランダの経済学者/アーティストであるハンス・アビングの『金と芸術:なぜアーティストは貧乏なのか』(山本和弘訳、grambooks、2007年)という本があります。原著は2002年発行で、オランダの芸術家の生活を経済学的な視点から見ている本ですが、そのときすでにオランダは芸術家を職能認定して、経済的困窮をサポートできる制度を備えていました。いまはフランスでも、同様にアーティスト資格で失業保険が取れる制度があります。先生の仰る通り、これは日本では考えられないことですよね。

さらに言えば、たしかに日本で「教授」は雇用形態に過ぎず、我々が職能認定される資格は「学位」などになるのだと思います。本来は、「アーティスト」も専門職ですよね。専門職には一般に、社会的で公的なサーティフィケーション(証明、認可)が出される。医者は国家試験、弁護士も司法試験があり、通らなければ認定されない。アーティストに対して、近いシステムは世界中にあると思うんですけど、日本の場合、アーティストには認定ができない。これはキュレーターも近い側面があると思います。例えば僕は学芸員資格を持っていますけど、資格を持っていても学芸員にはなれないので。

職能として認定することの重要性は、その国にある職能の人がどれくらいいるのかをある程度把握できるということにもあります。もちろん、国家による管理には問題もありますが、それができて初めて日本には弁護士を増やすべきだとか、医者を重点配置しないと医療が回らないといったことがわかるようになる。しかし、日本では文化芸術関係者の職能認定がないので、そもそもその層がどれくらいいて、それが自分たちの社会にとって適正なのかという議論自体ができない。秋野さんが強調するのは、ドイツの場合このようなデータを積み上げてきたからこそ、対応も早くなったということですね。安易に制度を作ればいいという問題でもないですが、日本でもその把握は大切な問題ではないかと思います。

吉見:これは本当に深い問題で、日本社会では「メンバーシップ型からジョブ型へ」などと言われますが、専門職能についての対応がちゃんとなされない限り、うまくいきません。日本ほど高学歴でありながら、大学で学んだこととその後の仕事や職業が対応していない社会はない。ある職能をきちんと認めてデータにすることは適切な支援にもつながるし、職能が団体性を持てば、政治に対して一定の圧力をかけていくこともできる。その前提自体が成立していないことに、日本の根本問題がありますね。

芸術と「感染症」の近さ。パンデミック下の表現を巡って

吉見:私はまた、アーティストたちがこのパンデミックを自身の表現にどのように取り入れ、どんな芸術の問題として表現しているかということにも関心を持っています。

基本的な認識として、この2年のあいだ言われた「ソーシャル・ディスタンス」「ステイホーム」「三密回避」などコロナ感染予防に関するあらゆるメッセージは、本質的に反芸術的です。なぜなら、文化芸術というのは、根本的に接触、交流、越境、饗宴と不可分の人間的行為だからですね。そして芸術は「感染」する。つまり、芸術は限りなくコロナに近い。それを強制的に止めざるを得なかったこの2年間の状況そのものが、アンチ芸術的だったという認識から我々は出発しないといけないでしょう。

こうしたコロナ禍の芸術にとっての本質的な意味を踏まえた表現は、美術でも音楽でも演劇でもすでに出始めているのではないかと思います。また演劇の例になりますが、ここでもやはり早稲田の演劇博物館が「Lost in Pandemic ――失われた演劇と新たな表現の地平」(2021年6月3日~8月6日)という面白い展覧会をやっていて、いろいろな事例を紹介していました。

例えば、静岡県舞台芸術センター(SPAC)芸術総監督の宮城聰さんたちは「でんわde名作劇場」という電話演劇をやりました。「オンライン配信は演劇的じゃない」と彼らは考えたのでしょう。たしかに演劇舞台のオンライン配信は、コンテンツは演劇であっても、その行為自体が演劇的ではない。何かが違う。それならどうしようと考えて、電話演劇を始めた。何をするかと言えば、役者が会場に来るはずだった観客に直接電話をかけて、指定された台詞を読むわけです。そこに演劇的な同時性が成立します。

ほかにもチラシ、ポスター、プログラムを全部作り、まるで演劇が行われるような状況を作りながら実際は何も起こらない紙カンパニーprojectの「架空演劇」のような作品や、観客の元にハガキが届くたびに書かれた台詞が大きくなる、ゲッコーパレードというグループによるかつての寺山修司の「書簡演劇」に近い作品もありました。演劇においてはそのように、この状況をいかに演劇的に表現するかという試みがすでに出てきています。

もちろん、もっと素朴に演劇や音楽など芸術行為の原点を感じる光景もありました。例えばまだコロナ禍が始まったばかりの頃、外出禁止中のイタリアで住民が集合住宅のバルコニーにみんなで出て、音楽を楽しむ光景がありましたよね。あれは素晴らしかった。道路という移動のための空間を非常に抑圧的な状況のなかで距離を越えるコミュニケーション空間に変えてしまった。すごく芸術的な行為でした。

一方で、文化芸術は健全だから良いのではなく、もっと危うい部分も必要です。かつてアントナン・アルトーは「演劇とペスト」という文章で、演劇をウイルスのような存在に例えた。寺山修司にも似た発想がある。芸術行為は疫病や感染症、その結果としての死と近いんですよね。能は死者を蘇らせる儀礼です。だから誤解を恐れずに言えば、死者がいないと困るんです。死者の世界がまずあって、それを現世に蘇らせるところに演劇行為が成立する。アートだって、クリスチャン・ボルタンスキーのような人の表現は死と不可分ですし、古くは「ダンス・マカブル」(死の舞踏)のような例もありますよね。

表現行為と死の根本的な近さ。このことを真剣に考える必要のある状況がコロナ禍に現れた。その意味ではたしかにアーティストの生活が救われることは非常に重要だけれど、他方で、アーティストは普通の人間よりもより深くパンデミックに「感染」している必要があると思いますね。表現的に、自分の感性においてパンデミックを内面化して、深めていく行為が専門家だからこそ必要。昔の僧侶や宗教者は目の前の死者の魂を自分の体に入れて発話した。そこまで行かずとも、世界を覆った死の問題、疫病の問題を自分の体の中に入れて表現を出していく行為をアーティストならすべきだと思うんです。

光岡:文化芸術をどう救うかという部分に僕らは目を向けがちですが、文化芸術だからこそ救える何かについても、もう少し考えた方が良いと。「救う」というと、言葉は強いですが。

吉見:いまの社会は「生」や「光」の世界に価値を置き過ぎていますね。しかし、中世まで行かずとも、かつての世界では闇や暗がりの価値がもっと感じられていたはずです。我々は近代以降のその衰退の果てにいる。しかし、アートはそうした失われた価値も含む何かであってほしいと思います。

> リフレクション:コロナ禍の先に文化の「土壌」を耕すために(後編)はこちら


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